heartbreaking.

中年の末路とその記録

人様のブログのコメント欄でのバトルを見て思う事

以下は、某ブログのコメント欄を読んで思う事ですが…

結局、誰もが己の主張を優先するがばかりに、そのブログ主が思い描く意図とはかけ離れた議論の応酬に熱を入れすぎて収拾が付かなくなってますね。自分を正当化する為の弁明しか頭に無いトンチキな奴等(俺が人の事言えた立場かヨッ!!!)は、ブログ主の構想から脱線しまくったフィールドを勝手に作り出して議論し合ってるから。ブログ主の記事とはどんどん掛け離れたコメント欄になってしまうんですね。

コメント欄が記事と一体になって表示される限りは、ブログ主の気持ちも察して少しは本題に戻ろうとか努力すべきじゃないですかね。己のブログ内ではいくら暴れても構わないが、人様のブログ内で暴れるのは…いかがなものかと思うね(いくら言葉遣いが綺麗でも、無関係に己の私欲を満たすが為に執拗に何度もコメントを繰り返す行為は充分・暴れているとみなしてよい)。

コメント欄ってのは、そのブログ主とコメント主との1対1の会話の場じゃないの?なのに、何でコメント主同士が言い争ってるんだ。ブログ主を擁護したい気持ちも解かるが、何でコメント主がブログ主に成り代わって、別のコメント主を攻撃してるんだ?それこそ、アンタ何様のつもりさ?って思いますよね。

ああ、また自分の事を棚上げしちまったよ…orz 今の気持ちを自分がブログ主の立場として表現してみたポエムなんかもあるんですけどね…。つまり暴走し続けるトンチキ達を止める術は無いと言いたいわけです。まあ所詮、人事なんで放っとけって言われればソレまでなんですけどね…

↑のように、己の過去記事を故意に読ませようとする行為は、俺に対して興味も無い人から見ればウザイだけだと思いますけどね。とある女性のブログでは、常に過去記事をピックアップして読ませようと目論むしたたかさが嫌というほど目に付きますけどね。

…話は変わるが、想い人が、自分とは真逆の道を歩み始めたときや、その根底にある考え方が自分と異なると気が付くとき。その異なる考え方を、頭ごなしに糾弾するのか。それとも、その異なる考えすらも愛しいと思えるのか。その違いで、互いの関係がソコで終わるかどうかが決まるのだと思ったよ。

自分が少なからず好意を抱いた人間が、自分を否定するような記事を出した場合…。それを、 「酷い」 と頭ごなしに罵倒するのか。それとも、そんな考えもあるのね・・ と異なる意見すら黙って受け入れられるか。どちらの場合も、全く反応を示さず傍観しているだけの 「無関心」 よりは遥かに、自分のことを真剣に考えてくれている愛すべき存在なのだと、気が付くべきだ・・

俺は、気が付かず切り刻んでしまった残骸が・・ このブログにまだ残っているけれど。俺に対して真面目にコメントしてくれた人の意見は削除できないし、削除することで綺麗な自分だけ見せるよりは、汚い自分を見せるほうがマシだと思っている。ドロ塗れの靴底で踏みにじられたチラシの裏面でも、ボロボロに破れたチラシの裏面でも… それが自分があるがままに刻んだ生き方であるのなら、それは飾り立てた偽りのチラシの表面よりも遥かに自分を輝かせるブログと成り得るのだ。ああ、ラーメン食いながら慌てた記事なので、意味不明ですね…orz

イース・フェルガナの誓いの「パーフェクトコレクション・イース?-2」内の「07 Introduction」が好きですね。凄く落ち着くんですよね、この曲。

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goo blog funamushi2 - 2005-07-22 11:40:02 コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )