heartbreaking.

中年の末路とその記録

他人の不幸話を何処まで我慢できるかな

見ず知らずの一見さんが、垢の他人のドス暗い不幸話を果たしてどの程度読み進められるか。

その人物には何の興味も無いのに、他人の不幸話を一方的に聞かされるだけなんて拷問と同じだよ。それを読む事によって、何も得るものなど無いと解かりながら最後まで読破したところで。重苦しい気持ちが残るだけ。

不幸話する人は、それを逃げ道にしながらその他の自分勝手な主張を"大目に見て欲しい"っていう甘えの気持ちもあると思う。「自分はこんなに不幸なんだ、お前らみたいにノウノウと生きてないんだ、だから俺は何でも言えるんだ」っていう傲慢さすら、言外に滲ませているようで。それを察知した人々に不快感を与えている。

皆が同じ「苦しみ」だなんていうのは所詮、綺麗事であるし、人の苦しみの度合いは明らかに違う。だからと言って不幸話を記事にしている時、自分だけが「悲劇のヒロイン」的な自己陶酔に陥ってしまうのは危険。これがブログの落とし穴で「己の不幸話を記事にすることに快感」を覚え始めたならば確実に現実世界の自分を追い詰めてゆく事になる。

不幸は、自慢するものでは無い。

自分と同じ境遇の人に共感して欲しいだけの気持ちで記事を出しても。その苦しみを知らない人が、斜め読みだけした場合「なんだ暗いヤツだ、氏ね」程度にしか思われないのが現実。所詮、皆「自分が一番不幸だと思いながら生きている」から。過剰に不幸話ばかりなブログってのも、嫌われるのだろうな(俺もな)。

goo blog funamushi2 - 2005-08-28 02:28:37 コメント ( 4 ) | Trackback ( 0 )