heartbreaking.

中年の末路とその記録

人生が不幸だったかどうかは、死ぬときに解ることだから

昨日、学生時代の親友に会い、彼女ら全員に子供が生まれている事実を知り、かなり打ちのめされた。白目を剥いて目の裏で自殺も考えまくったが、死ぬ勇気も無くソファに倒れこみ、ほとんど眠り続けていた。

何だろうなこの敗北感は… 何で子供が出来ただけで、そんな勝ち誇った顔なんだ。いや相手に悪気はないんだろうけど…… 私の事情をいちいち口頭で説明しても、場がしらけるだけだから、何も言わなかった。

自分の愛想の良さにもうんざりする。「じゃあまた」と言って笑顔で離れてから、ずっと心が空洞だった。別に子供に執着するわけではないけど、子供が出来れば一人前みたいなモノサシで、一方的に測られてしまったような最悪な気分だけが残った。

最近の若い母親は、自分の事を「ママ」と呼ぶんだな… 日本人なら「お母さん」…じゃないのか?

DQNな親が増えているようだな。こんなのもある。DQNネーム(子供の名前@あー勘違い・子供がカワイソ)

うつむいて歩いていたのに、髪型変えたのに、それでも会いたくない旧友には簡単に見つけられてしまう。自分は忘れようとしても、人はよく覚えているものだな… でも私が旧友を見つけても、まず声はかけないと思う。別に話す事に意味を感じないからだ。

いっそ、違う土地に引越して、まったく新しい生き方をしてみたい。でもこれから歳をとってゆく親を置いてはゆけない。

ある意味、養護施設出身者は、気楽でいいもんだと思う。よけいなしがらみも一切なく、どこへでも自由に飛んでゆける。彼らの人生は、まさに「地図のない航海」に出るようなものだ。どこへでも漕ぎ出してゆける。

だから私は、養護施設出身者がそんなに不幸だとは思わない。人は、生まれ持った環境の中で、それぞれに精一杯生きている。子供は環境を選べない。選択の余地もなく育った環境によって、その人物の基礎が出来上がってしまうから。「お前は親の金で大学に行ったから」とか、そんなどうしようもない環境の問題を責めること自体が、どうかしている。

私は、あの人物が今は恋人も居てあまりある幸せを手に入れたにも関わらず、いい歳をして子供のような理屈を捏ねているなと感じたから、言及したまでだ。

人間にとっての最大の不幸とは何か。それは、恋愛できない事だ。二人連れになれば、二人でどんな苦難だって超えてゆけるだろ。それも自分が選んだ道ならば尚更…

悶々としていたけど、昨日からのニュースで、ガムテープで顔面ぐるぐる巻きで殺害された女性について考えると、性暴力も受けたのだろうかとか心配になる。何て不幸な女性なんだろうって… 心から思う。

人生が不幸だったかどうかは、死ぬときに解ることだから… だから諦めるのはまだ早い。

人と自分を如何に、突き放して考えられるかで、飛躍できるかどうかが決まる。私は人に流されすぎる。自分本位で、自分がすべての世界を構築して、その世界の中で生きているように自分に暗示をかけてみてはどうだろうか…… 私がすべてなんだ、と自分を信じさせる魔法をかけてみれば、少しは生きやすくなるかもしれない。

私は精神科のお世話になる気はない。だから自分で自分を何とか立たせる為に、イメージトレーニングを重ねる事が大切だと思っている。

goo blog funamushi2 - 2007-08-28 09:53:14 コメント ( 0 ) | Trackback ( 2 )