heartbreaking.

中年の末路とその記録

望む答えが得られなくとも悲観することはない

人に言って解決する悩みと、解決しない悩みがある。

自分の心の苦しみを誰かに打ち明ける場合は、どんなに苦しみを吐き出してもいいけど、最後には必ずポジティヴな方針を打ち出すような終わり方をしておかないと、後で一人になって考える時間にさらに苦しむ事になってしまう。それは親子でも夫婦でも恋人でも。近しいからといって相手が理解できる境遇や生き方をしているとは限らないので、自分が望む答えや反応が得られないことのほうが多い。

何事も、終わり方が大事だと感じる。どんなにマイナスな出来事であっても、最後に終わるときは必ず次に繋がるような対策を自分なりに打ち出しておく。そうすると話を聞いてくれた相手に対しても、依存しすぎないカタチで(互いに)嫌な思いをせずに済む。

誰かに話す過程の中で、たくさんの閃きが生まれる。会話をしながら閃いたポジティヴな案を、話のラストにもう一度再確認するかたちで口に出しておけば、生きる意欲が沸いてくる。そして話を聴く相手も、打開策を見出そうとする話し手からイイ影響を受け、互いの人生にプラスに作用してくる。つまり無駄ではない。

肉体的な問題は、医師に頼って物理的に解決するしかない。けれど精神的な問題は、自分がどうにか立て直してゆくしかない。

俺の悩みを、俺以外がワカラナイのは当たり前で、むしろ、わかられた方が困る・・・ そんな簡単に他人に理解される俺ならば、この世に存在しないほうがいい。

小さなものから大きなものまで、今感じているさまざまな悩みは、自分がオギャアと生まれて今日に至るまで歩んできた「人生」が感じさせている悩みでもあり、その感じ方は自分にしかない感じ方だから、他人に理解されることはない。親子でも夫婦でも恋人でも、望む答えや反応がないほうがむしろ自然だといえる。もし、望む答えばかりが得られるような関係ならば、それは相手が無理して合わせてくれていると疑ってみたほうがいい・・・