heartbreaking.

中年の末路とその記録

理屈じゃない部分で反応してしまう自分を変えるのは難しい

ブログを一週間以上放置した。いやネット自体見てないで過ごした。パソゲーしてた。これぞ完全なる現実逃避で、仕事に行く以外は人とは関わりたくないって感じで引き篭もってた。

ブログ更新しなくても、ネットでニュースサイト見なくてもナントカ生きてる… ネットの世界に少し後ろ髪をひかれる思いもありつつ、現実世界で最低限やるべきことを無難にこなすだけの日々が続いているうちに、いつの間にか自分のブログの存在は本当に忘れてしまった日もあった(ブログって一体なんなのだ… と思った日もある)。

自分が発信者ではなくて、受信する一方だと、日常のさまざまな風景を見る中で頭の中に浮かんでくる思考や、ときには怒り・嫉妬などがカタチにならないまま崩れ、自分の中のどこかでそれらが砂粒のように静かに溜まり続けて、やがてそれらが声を出しはじめる。「お前もなんか言わないのか…?」と。自然と伝えたいことが沸き起こってきて再びブログを更新し始める。
ほとんどの沸き起こる感情を押し殺して無言で生き続けるだけの自分が、声をあげる自分の存在をそのまま放置して生きていれば、やがてその声は「叫び」に変わり、自分そのものの姿すら変えてしまうかもしれない。
それほどに小さな不満や怒りは、当たり前の日々の中で多くの他人に関わるうちにたくさん自分の中のどこかに降り積もっている。これをどこかに撒き散らすか、燃やすかしないと「うっ……」と息詰まった思いのままでやはり何も言えないで勝手に勘違いされたり誤解されたままに、本当の自分をどこにも認識させることなく、ニセモノの作り物の笑顔や優しさだけが本当なんだと人々に誤解されたまま生きてかなきゃならなくなる。

仕事の行き帰りに特に目にとまるものは、普通に元気な気分のときは他人の姿や行動などであるが、少し行き詰まってきたときにはコンクリートのすき間から力強く生えてる草花ばかりに目がとまる(嗚呼すごいな… こんなとこから生えてる、と)。
もう自分は死にたいのだと思ったときにはもう、自分の足元か地面しか見ていない。地面の上を歩く自分の足の動きだけ死んだように見つめているときも多い。多分、疲れている… 色々考えすぎている。

今、目の前にある問題について感じる不満や怒りは、なぜ湧き起こったのかというと、単純に今の自分の問題だけを考えれば済むわけではなく、自分がオギャアとこの世に生まれてから体験した様々な出来事が複雑にカタチを変えながら絡んでくるので、他人からすれば「そんなことで?」と思うような単純なことでも、過去をひとつひとつ紐解いてみようとすると、ひとつの問題を解決することすらも、とてつもなく難しいのだと気付くこともある。
特に、自分では選べなかったことはもはやどうすることもできないので、自分が「許す」ことでしか対処しようがない。どうしてもそのことが許せない時期もある、だけどそんなことも様々な経験を重ね、歳をとるうちに、「嗚呼そんなこともあった…」と思うように変わってくる。
だけどそうした解決できたような問題でも、多くの他人と関わる中で、実は解決できていないのだと気付くことがほとんどで、特に「理屈じゃない」部分で意識せず反応してしまうような深い傷口にはメスを入れることはできないので、その傷口をずっと背負ったままで生きてくしかない。