heartbreaking.

中年の末路とその記録

確実に傷付く人が見ている事を知っていても気付かないふりを通し「だったら見なければいい」とは思わない

音楽について記事を出す前後に、片方の耳が聞こえにくい「小耳症」に悩むrikuoさんのことを考えていた。

音楽の話を「音楽がすべてだ」みたいに楽しげに語る俺を見て、rikuoさんのように片方の耳が聞こえない人はどう感じるのだろう?と考えていた。こうゆう無意識の「無邪気」さが一番、罪深いってのは俺自身いつも感じていることだから… 

俺も以前話したとおり、突発性難聴になって片方の耳が聞こえ難い体験をしたので、ほんの少しだけrikuoさんの気持ちも解る。

人間の体は左右対称に付いているものが、重要な役割を果たす部位であることが多い。耳に関しては、左右揃ってこそはじめて音楽を本当に心から楽しめるのだから… 

貴方が今被っているヘッドフォンをずらして、ずっと片方の耳だけで聞き続けてみればいい。音を大きくしてみると音割れして、とても聞けたものではない。この状態がrikuoさんは永遠に… 多分、墓に入るまで続くのだろうと思う。これはとても辛い……

日常の電話応対だって片方の耳が受話器で塞がれてしまったら、オフィスの同僚が何か伝えてきても気付きにくいだろうし。

音楽でもヘッドフォンをかぶると、楽器のパートを左と右・交互に攻めてくる曲も多い。古い曲だけどB'zのBE THEREの出だしもビビビビ…って、左右交互に責めながら曲が立ち上がるので。こうゆう粋な演出も、片方の耳しか聞こえない人は知る由もないわけで。

両方の耳が聞こえないのも辛いだろうけど、実は片方しか聞こえないというのも相当辛い。イライラするし、精神的にも不安定な状態に陥りやすい。俺も突発性難聴のときは片方の耳がボコボコ鳴って、どんどん聞こえ難くなって、最後には耳の奥にぴっちりフタをされてしまったような気持ち悪さを感じた。

体の重要な一機能に、栓をされたような嫌悪感と息苦しさだった。はたまた頭部の半分だけ海の中に潜ってるような… 自分だけが外の世界から完全に切り離されて存在するような錯覚すら感じた。最後には視界がかすんで、誰が何を言っていてもフィルターを一枚隔てた先の異次元の出来事のようにすら感じられたほどだ。俺はあまりの気持ち悪さに立っていられなくなり、しゃがみこんだ。耳と目は大きく関係するんだなと感じた瞬間だった。それほど片方の耳しか聞こえないのは辛い事なんだ。

でも、rikuoさんがもし「音楽の話を楽しそうにするhashigotanを見るのは苦痛だ」と主張したとしても、俺は音楽の話を止めないだろうと思う。これは、俺がセックスブロガーの一条さんに「セックスの話をするな」と主張しても、一条さんがセックスの話を止められないのと同じ事なのかな…… 

何がその人にとって不快か、ってのは人それぞれだから。でも人を傷付けるのは、いつだって、誰かが当たり前のように味わっている無邪気さだから。

自分がそれについて語ることで、確実に傷付く誰かが居ることを知っていても、それでも気付かないふりを通しながら「だったら見なければいいじゃないの」とか言える人間は最低な人間だと思う。それを言われてしまったら、じゃあ身体的弱者は何も見るな、というようにも解釈できるので。

俺が、恋愛の話が苦手だと主張しているのが原因で、俺に気遣ってそうゆう話を避けてくれているブロガーを何人か知っている。彼らも記事を打とうとする時に、俺のことを考えて指が止まるのかもしれない。そんな気持ちを少し掴めたような気がしたので、布団からもそもそ出てきて文章にしてみました。

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goo blog funamushi2 - 2007-02-05 02:54:59 コメント ( 11 ) | Trackback ( 0 )

コメント

Unknown (hashigotan)
2007-02-05 18:49:09
記事を打った後で、小耳症についてウェブの情報を読んでいると、聞こえ難いという問題以外にも、左右に対象に耳が付いていないという外見上の悩みもあるようです。
また、自分が言葉を発する場合にも弊害があるだろうと思います。
自分の耳を片方指で強く押さえたまま、何かしゃべってみると声がくぐもって自分の声すらも正しく認識できなくなります。
自分がしゃべる声すらもきちんと正しく認識できないので、誰かと会話をするという行為自体にも不安を感じストレスになるだろうと思います。
「聞こえない」という問題点だけに注視するのではなく、それによって派生する様々な問題についても、我々のように耳が聞こえる人間も可能な限り、その人の苦しみを想像すると共に考えることが大切だと感じました。

私は慣れているから (rikuo)
2007-02-05 18:54:30
音楽の話もそうなのですが、たまにゲームなどで音源が移動するなどというものはちょっと苦手ですね。例えばこれとか。
http://portal.nifty.com/2007/01/21/b/
片方の耳だけでは音の位置は分り難いので、こういう時には耳の障害のことを強く感じます。
ただ、だからといって健常者にどうこう、という思いはないですね。
というのも、私とhashigotanさんの大きな違いは、先天性なことだと思います。
hashigotanさんの突発性難聴の話もそうなのですが、片耳が中途難聴の知り合いと話していても、彼らの抱いている「感覚の喪失」というのが実感としてはないんです。何せ私は生まれてからこれまで両方の耳で聞いた体験がないので。
確かに健聴な人に比べれば、聞こえ難いとか、不便なことも多いのでしょうが、私にとってはそれがずっと当たり前のことなので、実はそんなに辛くもないし、重いものでもないです。
例えば鳥は空を自由に飛べる能力があるけれども、私たちは誰も生まれつき飛ぶことはできない、でもそれが当然のことだから不便なんて感じないように、持ったことのない感覚の喪失というのは正直なところよく分からないですね。
だから、私は人生の途中で障害を持った人の方が大変だな、と感じています。

rikuoさん、こんばんは。 (hashigotan)
2007-02-05 19:42:42
リンク先の聴診器ゲームを遊んでみたのですが、こういった感じの肉体の一機能に特化させた遊びっていうのは、その機能を失った身体的弱者の心を確実に傷付けていると思うので、我々はそれを心の隅で意識しておく必要はあると感じました。
rikuoさんが「気にしなくていいよ」と言ったとしても、我々健常者はその言葉に甘んじて一方的に無邪気に傷付けながら考えることを放棄するのではなくて、 同じ身体的苦しみを味わうことは不可能であっても、その苦しみと、日常生活における不便性を可能な限り想像し「考えること」が大事だと感じています。
先天性ではないけれど耳の聞こえ難い苦しみを体験した人たちも、その時に感じた日常生活における不便性をウェブ上で、そして現実世界で語ることによって、 rikuoさんのように生まれながらに耳が聞こえ難い苦しみを持つ方がこれ以上不便を感じずに済むより良い社会や公共施設へと改善してゆく足がかりになるかもしれないと思うんです。
生まれながらにその機能を失った人は、自分がいかにこの世の中で不利益をこうむりながら生きているのか知るよしもありません。だから、rikuoさんのような方がどれだけの不利益を蒙りながら生きているのかを考えると共に、社会的に改善できる面は考えてゆく必要はあると思います。
俺の場合は突発性難聴で今は治っているので、rikuoさんの長い苦しみの比ではありませんが、ただ音楽を漫然と楽しむのではなく、時には立ち止まり、耳の聞こえ難い人も居るのだと考える時間を持つことによって、rikuoさんのような方々が少しでも救われる面があるのではないかと… 俺の思い上がりかもしれませんが、そういった思いやりの心を持つ人がウェブ上でも増えればよいなと感じています。
NHKの番組で、生まれつき障害を持つ方々の歩みを描いた番組をよく見るのですが、彼らを見ても、健常な人たちよりもむしろ前向きに生きようと堅実に・ひたむきに努力している姿にいつも強く心を打たれています。
rikuoさんのコメントの鳥の話を読んで、それと同じ生命の輝きを感じました。

Unknown (hashigotan)
2007-02-05 20:33:22
具体的に言うなら、日常生活のあらゆる場面における騒音問題を出来うる限り規制して、騒音のない静かな社会を目指そうとか、出来るところから着手し、弱者が心穏やかに生活を営める優しい世の中になって欲しいと心から願っています。

初めまして。 (左耳難聴者)
2007-02-05 23:23:59
突然のコメント申し訳ありません。
私は小耳症ではないのですが、先天的に左耳の聴力がありません。
でも、音楽の事を楽しく話しているのを聴くのは全く苦では有りませんし、そんな時間はとっても楽しいと思っていますよ。
rikuoさんと同じで、ずっと片耳の生活に慣れてしまっているとあんまり生活で不便は感じません。
音楽だって楽しめます。
会話だって難なく出来ます(少々聴こえづらいことはありますし左方向からの音が聞こえにくいことはありますが)。
だから、音楽が楽しめなくて大変だ、とか
そういう感想はあまり持っていただきたくないなぁと思ったのです。
あまり上手く表せないですが・・・。
片耳から聞こえてくる生活が、普段の生活なんです。
普通に生活できていればそれで充分なんです。
「苦しみが・・・」とか言われると多分、先天的に片耳の方は苦笑するだけだと思います(笑)。
本人達が、「全然、平気だよ」と言っているのならば、それ以上は無理に想像しなくても良いのではないでしょうか。
ただ、後天的に片耳難聴になってしまった方だとか、両耳が聞こえない方への配慮はとても必要なことだと思います。聴こえない生活に慣れることはとても大変なことだと思いますし、社会の支えが必要だと思います。
上手くまとまらなくてごめんなさい。
失礼しました。

伝えないと伝わらない (rikuo)
2007-02-05 23:44:56
伝えないと分ってもらえない、考えてもらえない、というのは確かにありますね。
私の場合は、相手に伝えることで座席を代わってもらったりするなどの対処をしてもらってます。聞えない右側に話し相手がいると、聞き取り難いので。騒音問題までは取り組まなくとも(笑)、それくらの配慮はしてくれると私が楽ですね。それも、不便さを伝えなければ単純に私だけが苦労する問題ですから、分ってもらう重要性はあります。
ですが、分らないのもやはり仕方ない部分があるとも考えています。
私の病気の小耳症は、珍しい例ですから看護婦だった母も知らなかったそうですし、それはしょうがないことだと。だから、ブログなどを通じて少しでも知ってもらうのは必要だな、というのが私がネットで情報発信している理由です。
まぁ、でものんびりやればいいかな、くらいの心意気なんですけれどもね。
あと見た目の問題ですが、これも良し悪しで、知り合いの片耳難聴の人はその障害のことをなかなか相手に伝え難い、それは自身の気持ちの問題として言い辛いこともあるし、分ってもらえないこともある苦労があるそうなのですが、私の場合 見て分る変な耳なので、初対面で言わずとも
「あぁ耳になにか大火傷でもしたのかな?」(とよく言われます)
と察してくれ、その話がしやすい、というメリットがあります。話しが戻りますが、まず相手に自分の耳のことを説明する、のが結構重要なので、そのメリットは割と活かしています。

タワレコの看板 (しんかいぎょ)
2007-02-06 00:08:27
に、「NO MUSIC NO LIFE」
って書いてあるのを見て、
耳が聞こえない人にとってはどう映るんだろう、
と言っていた人がいました。
これも全然耳が聞こえない人に配慮が足りていない例でしょうか。
でもrikuoさんのブログのタイトルとか、思わず吹いちゃいました。愉快で、楽しい。
片耳が無いことでそんなにギャグ言っていいのかな、って思いました。
接したこともない人間については、優しさも気遣いも行使するのは簡単ではありません。
左耳難聴者さんの
>「音楽が楽しめなくて大変だ、とか
そういう感想はあまり持っていただきたくないなぁ」
の部分とか、想像するのは難しいですから。せめてブログでも読んで知ることをしてからでないと、言及するべきでないのでしょう。
結局何が言いたいのか自分でも掴めませんが、
コメント欄は意見発信の場ではないので、これでいいのかなぁなーんて。

左耳難聴者さん、初めまして (hashigotan)
2007-02-06 02:14:50
先天的な障害を持つ方たちは、健常者よりもむしろ他者に対して気配りが出来る・精神が自立している方が多いのではないかとすら感じられました。
それはなぜかと考えると、先天的な方たちは生まれながらに親兄弟にもそういった認識の下で育てられてきたからこそ、なのかもしれません… それは俺のような健常者には想像も出来ない苦労を親兄弟と乗り越えてこられた結果なのかとも思われます。
障害を持つ方たちほど、自立したいという意思が強いように見受けられます。なので健常者が手を差し伸べようとしても、拒否して、自分は自立しているのだという姿勢を見せることで、対等な人間関係を築こうとしているのかなと感じました。
だからといって、健常者が「はいそうですか」と引き下がれば、健常者と障害者の間にある分厚い壁がいつまでたっても壊せないので、時にはこうして考える時間も大事だと感じています。
俺の考え方は、けして大げさなものだとは思っていません。貴方たちは意識せずとも生まれながらにそういったハンディを背負わされているわけですから… 知らなければ痛みも感じない、のではなくて、同じ人間として生まれたからには、同じように音を聞いて感動を味わう権利はあると思うのです。だからこそ考えることは大切なのです。

rikuoさん、こんばんは。 (hashigotan)
2007-02-06 02:19:59
rikuoさんの座席に関する話を読んで、以前NHKの番組の中で障害者の方が、
「SOSを出しにくいという壁、
 声かけにくい壁、それを薄くしたい」
という意見を述べていたのを思い出しました。
障害を持つ方たちがより積極的に、我々健常者にSOSを出しやすい環境を整えるためにも、俺のような小さなブロガーも時には真面目に考えて意見を発信することも大切だと感じています。まったく考えないよりは、ゼロの状態から少しでも近づけると思うので、まずは気になった事は言葉にして意思疎通することが大事ですね… それによって障害者と健常者の信頼関係にも繋がるのではないかという希望も見えてきます。
医学的に解決できる事・できない事とは 別問題として、 同じ社会に生きる者として、最低限協力できるところは皆が歩み寄って協力しなければならないと思うからです。俺も現実世界でrikuoさんのような方が、座席を代わってほしいと言われたなら積極的に代わりたいです。
いくら見た目で判断できるとはいえ、世の中には障害者を指差してその見た目を口にする不届き者も存在するので、そういった意味での苦労も多かったのではないかなと… 
俺もつい最近までは、rikuoさんは しなもん君のイラストを描く人でブログ論も打つ人なんだなという認識しかありませんでした。でも過去記事も読むことによって、俺自身が得るものも確かにありました。障害を持つ方々の話を聞くことは、我々健常者にとっても精神的な面で必ず得る大きなものがあると思うので…
記事中で、もう症状については語り尽くした、のような言葉が見受けられましたが、大事なことは何度でもしつこく繰り返しても良いと思います。それがブログの特権かなと思いますし… 俺もしつこく繰り返しているので^^;
感情論での俺の意見は、この記事とコメント欄でほぼ出し尽くしてしまいましたが、また気付いたことがあればこのブログで考えてみたいです。

しんかいぎょさん、こんばんは。 (hashigotan)
2007-02-06 02:23:35
障害者を見る健常者の考え方も多種多様であって、俺のように過剰に感情移入しすぎて、「それは危ないから駄目」とかいって障害者の行く手でいちいち過剰に反応しすぎるタイプの人間と(これは俺の親が障害者であることも関係します)、
障害者であっても、どんどん積極的にやらせてみればいい、という客観視しすぎる視点とがあって、
その中間どころが案外少ないんじゃないかなあ、と感じています。(俺が前者の過剰に深刻に考えすぎる人間で、しんかいぎょさんは客観的視点が色濃いようにも感じられました。
障害者にとって心地よい対応ってのは、どうゆうのだろう…?とも考えました。 …それは自分が実際に障害を負ってみないことには解らないのですが、先天的でも後天的でも、その人が少なくとも我々健常者よりは日常生活において不便をしていることは間違いないと思うので、こうして考えることは大事だと感じています。
その看板については、どうなんでしょう… ご本人たちに聞いてみないことには解らないです。

Unknown (hashigotan)
2007-02-06 02:59:32
俺もこの重い話題を扱うには準備不足で、感情論のみですが、理屈こねくりまわす前にまず行動って感じで、現実世界でSOSを受信したら積極的に手助けをしたいです。


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