heartbreaking.

中年の末路とその記録

ブログが衰退している

ブログで思うように反応が得られない、アクセス数がいつまでたっても増えないというかむしろ減る、読者が増えたり減ったりする、そういう悩みは私にもあります。

仕事で疲れて帰った時、とりあえずパソコンは起動するのですが大手ニュースサイトしか見ていないです。将来、ネットの情報は、個人ではなく、一か所に収束されてゆくのではないかと想像します。

個人の日記ブログを支えるものがあるとしたならばそれは、人々から得られる「共感」だと思います。

今後、昭和に生まれた人の心を理解しようとする平成あるいは令和の人がどれだけいるとおもいますか。

週1ペースでアナリティクスでアクセス数を確認していますが、ある時、自分の中での最低ラインを超えました。それはツイッターで脳内を垂れ流しすぎて中身スカスカの文章しか打てなくなっているのかもしれない。垂れ流し過ぎた中に磨けば光るもんがなにかあったかもしれない。

私はなにもないところから、なにかを考えるのが好きな性質で、道端に転がる石ころを拾い上げ何時間もかけて磨きをかけて展示するのが趣味なので、それで2005年から15年近くブログを続けてこれました。

もともとただの石ころだったものに頻繁に奇跡が起きるわけなどなく、ほとんどはまた石ころに戻ってゆくだけです。わざわざ拾い上げたりして悪かった。これは本当に私が言いたいことだったのか、と不信感に陥り記事を消すこともあります。

文章に対する正しい投資とは、その語りたい事象について徹底的に研究したその上で独自の理論を展開することにあると思う。

共感が得られなければ関心をひく行動をしなくてはならない、だがそれが長く続くほど読む側からはパターンが掴めてくる。徐々に関心が薄れていく、飽きられる。

人の関心をひくためにこんな行動をして報告か、なうんざり感が蔓延している。

ブログに報告するためになにかをする(別に、したくないことまで)。なにかが起こればそれをブログに書く。自分を良く思わせるために、嘘を吐く。小さな嘘が積み重なってくると、どこでどんな嘘を吐いたかも調べるのが大変になってくる。

一人でも読者がいれば続けていられる、なんていうのは綺麗事で、焦りだすとこれ以上アクセス数を下げないためにと、関心を集めるために奇抜な行動を起こしてみたりすることもあるがそれもあえなく撃沈、反応は得ることはできない。パワーワードをタイトルに入れても内容が駄目だったのかまるで関心なし。正直、時代についてゆけてない。

そんなことは日常茶飯事となってきた。

ネットもリアルも上手くいかなくなる、なんてことはよくある。

承認欲求をこじらせた結果、必死になってブログへ文章を打ちこみ続けることで、やがて、そんなに伝えたいことでもないようなことまでも伝えなくてはならないようになってくる、仕舞いには何度も告白してきた過去の出来事をまたほじくりかえしてみたり、だけど採掘できる資源に限りがあるのでほぼ同じことの繰り返し。

文章の一塊にするのは実は相当の時間がかかっているし、それが原因で睡眠時間になり仕事にまで支障が出ている日もなきにしもあらず。

自分一人で編集作業までしてるんだからそりゃそうです。

これが、一発勝負で打った文章だと思いますか。いえ、見直した上で出しています。

いらないものは削除してきた。

私は、一度失った信用はネットで二度と取り戻せないと感じています。

長く続けるほど矛盾が増えて不利になってきます。かといって新天地に行っても新しい自分になることはできない。

何故なら、文章にはその人独特の癖がある。

私は、嫌われる理由として、ブログ上の発言において、人の気持ちを考えられないところにあると思います。立場の異なる人の気持ちや人生を踏みにじるような発言を一度でもしたならもう二度とその傷付けられた人は戻ってはこない。

多くの人にとっての事故物件みたいになってしまったら、もう賃貸みたいに、看板名を変えるしかないような気もしている。

何でもない風に見せても、これでも結構地味に悩んではいる。

なるべくブログの衰退を直視していたくなくて、リアルで仕事に打ち込もうにも所詮、非正規雇用なので、この先なんの目標があるというわけでもなくて、ユーチューバーになるわけでもなく。

そんなですが、生きてさえいればそのうちブログに打たねばならないことも出てくるだろうと思うのでとりあえずは続けることです……そんなことを打ってみたのはこれまで毎日更新していた人がブログを非公開しているのも背景にあります。非公開にすることで一時的には「どうしたのかな」と心配になった人がアクセスしてくれることもあると思います。でもそのうち忘れます。