heartbreaking.

中年の末路とその記録

人が死んでも包むのは5千円が限界だ……

この間、母方の祖母が亡くなった。

夏をよう越さないかな……という話をしていて、葬式の時いくら包むのか(金が絶望的にないので5,000円にしてくれないかと聞くと、それでいいということだった)母に相談していた矢先の出来事で、仕事で疲れて寝ている休日の朝「婆ちゃんが、昨夜、なくなりました。」のメールが届いていたのだけど「なくなりました。」の文字を確認しただけでスマホを置いて夕方まで眠った。

一番の気がかりは、金がいくらかかるのかということでしかない。

90歳を過ぎた祖母がいつまでも周りの手を煩わせながら、それでも自分が生き続けることに、そろそろ疑問を抱いていた頃だった。一体いつまで生きるつもりなんだろうか、死んでくれないだろうか。そんなことを口にし始めていた。

正直なところ祖母に対して特に思うところはなかった。祖母とは15年近く会っていない。

何故私が祖母と疎遠になってしまったかは、遡ってこの出来事が発端となっていて私の中でその禍根がいつまでも残り続けている。(面倒くさい話になるので疲れている人は別に読まなくてもいい)

回復できない致命的なことってあると思うので……

大正から昭和の初期を生きてきた今の高齢者たちに、今の若者の事情などわからないし、理解しようともしていない。

たとえば自分の子孫を残さないことについても理解がない、何故なら、子孫を残すのが当たり前だと思っている。さらに、子孫を残せていたとしてもその母親となる女が自分の母乳で子を育てていないことにすら非難をする、そういう世代になっている。

私は諦めた。自分の事実を一度でも否定した人とは、たとえ血縁関係にあってもこちらからは関わりを持たない、それが自分を守るために大事なのだと理解した。

しかし母方の祖母はまだマシで、父方の祖母はもっと最悪な人だった。

絶対に、ということは世の中にはないと思うでしょうか、いや、絶対に回復できない酷い言葉はある。

とりあえず、行かねばなるまい。夕方に起き、通夜に行くことになった。喪服を持っていないので季節感不明なリクルートスーツで少し脇に汗をかいた。今後、身内で何人か亡くなりそうな人もいるのだが、喪服を買うつもりはない、通夜だけ出て5,000円渡して帰ればいいだろ……

私は、葬式には出ない。喪服等一式を揃える金が勿体ないというのが一番の理由なのだが、もう一つは、そんなことのためだけに仕事を休みたくないと思っている。坊さんが金もらうためにお経を上げている時間はなんか意味があんのか。

通夜で亡くなった祖母が横たわる部屋に上がる時には妙に神妙な面持ちでいなければ空気にそぐわないので(心とは裏腹に)、どうにか涙を出そうと試みたものの、それはどうにも無理だった。涙って、出ないものだなあ!

なにか言っておかねばなあ、傍で本気で悲しんでいる母の手前もあるので、最後に祖母に「ありがとうございました」と言って頭を下げて席を離れることにした。死んだらとりあえず「ありがとう」と言っておけばいいだろう。一滴も涙を流さない自分が、遠い過去に傷付けられた出来事をいまだに根に持っていることを思い知らされた。車に乗り込んだ後は煙草吸いながらなんだかいつもと少し違う夜景を見ているような気がしていた。子供もいなくて独身の自分がいつか死んでも誰も悲しんではくれないかもしれないがそんなことすらもどうでもよくなってきている。ここらは人の葬式に出なくなったことも影響しているかもしれない。しかし参ったな、5,000円を包んだがために、来月の家賃が払えるかどうか微妙だ……もうな、死んでまで人から金とる時代は終わりにしようぜ、そんな余裕ねえからよォ