heartbreaking.

中年の末路とその記録

金曜の夜なんとなく思ったことを寝る前に打ってみた

金曜の夜だろうが、それ以外だろうが、例のGoogleアプデ以降はなにをやっても浮き上がったままになることはけしてありません。そんなんでもまだ懲りずに更新をしているのはMだからです。

一人芝居に誰か一人が、最初から最後まで席を立たず付き合ってくれたなら、それが全てだと思います(ほとんどの人は流し読み程度でしょうけど、一人くらいはいるんじゃないでしょうか……文頭から文末まで読んでくれる人が)。

コロナの影響で大変な中を、逢いに来てくれてありがとうございます。

ブログの存在を覚えてくれていて、再び読みに訪れてくれる人がいるのは奇跡としか言いようありません。アクセスが大幅に減少して以降は、特にそのことを強く感じました。

なんだ今日アクセスこれだけか……じゃなく、今日もまた誰か読んでいる人がいます。ほほう、こんなのがいま読まれているのかと思いながらリアルタイムコンテンツを時々眺めている(いっつもは見てないです。。。)今日は過去の力作が読まれているらしい、それは凄いことだ。私は謙虚に受け止めることにしました。

もともとGoogle検索でページ単位で読み捨てられていた記事が、検索すら表示されないのでアクセス減るのは当然ですから、これにこれ以上悩むこと自体に意味がない気もしてます。

人が離れてゆく原因は、今は誰でもが発信者なので、意見を発信すること自体はさほど珍しいことではなくなっている。だから当たり前のようなことしかできない、あるいは平凡すぎると、忘れられてしまう。

かといって、自分では素晴らしいことを言っていると思っていても伝わらないことだって多くありすぎる。そのまま過去ログの一つとして永遠に埋もれて誰にも見つからないこともある。

読者様はいたが次第に関心の方向が微妙にずれていったり、それぞれの生活環境が変化したり、その人にとってそのブログの需要が尽きてもうイラナイってなることもあると思うので、離れてゆく人がいることを努力で引き戻すことはできないってことを知った。だってイラナイものを無理して摂取し続ける必要なんてどこにもない。

私もC71さんのブログは育児の話題ばかりになったので、残念ですが読まなくなりました。

何をやればそれが面白いって評価に即繋がるのかよくわからない。

無難なテーマで、そして出来るだけ多くの人に共感してもらえるような内容をコンスタントに更新してゆけばよいのか。だけどその扱う内容が自分に何を与えてくれるのか考えてゆかないと、人の顔色を窺っただけの、自分にとってあまり意味のないようなものになってしまう。

同じ場所で同じ人物として長く運営すればするほど泥沼にはまってゆくようで……

なんのためにそこまでブログに心血注ぐのか。第一に金目的な方がいまは多いのでしょうが、自分が忘れられたくないって思いがどっかにある気がしています。

今、ほとんど人に読まれていないブログであっても、それが既に存在として多くの心に入り込んでいるのであれば現状はどうあれ、そんなブログがあったと覚えられた点では成功していると評価していいのではないか?と私は思いました。