heartbreaking.

中年の末路とその記録

自分について語ろうとしない人には語れない闇がある

いつも笑っている人や、優しい人を見ていると、この子のほほんとしているなとか、天然だなとか思う人がいるかもしれない。だけど、そうした人たちのほうが案外苦労しているんじゃないかと私は感じている。人に優しくなれるのは、傷つけられた苦しみを知っているから。その笑顔は、天然じゃなく、苦しみの上に生まれた尊い笑顔かもしれない。
また、自分についてをほとんど語ろうとしない人は、少し得体が知れなくて不気味に感じることもあるかもしれない。しかし、自分についてを進んで語ろうとしない人は、おしゃべりな人からは想像もつかぬ、苦しみの上に生き続けているのかもしれない。
つらそうな表情をしている人や、おしゃべりな人たちなら、どこにでもいる。そうした人々が、優しい人の無言を利用しながら、傲慢に、言いたい放題しているような気がしている。
けれど、その人が微笑みながら、いつも聞き役にまわっているからといって、なんの悩みもなさそうで気楽に生きているというわけではない。なのに、額面通りでしか、自分以外についてのことを、とらえようとしない人がいる。なんの悩みもない人などはいない。たとえ、なにもないとしても、その、なにもなさが、悩みになることもある。
人に対する想像を放棄し、すべてを己が都合のいいように誤った判断をする人がいても、それを面と向かって注意できずに通り過ぎてしまったために、その人たちはいまも傲慢なままなのかもしれない。
自分がつらいのだという話ばかりを、誰も聞きもしないのに自発的に聞かせてくるような人たちは、想像力が欠けている。目に見えて、わかりやすい苦悩を背負う者ばかりが、傲慢に己の話をご披露したがるのを、黙って聞かされる一方の側の感情面を、想像してみてほしい。

人に語れる種類の苦しみと、そうではない苦しみがある。だから、黙っているからといって、その人にはなにもないというわけではない。
語らないのではなくて、語れない苦しみに密かに囚われてしまっているのかもしれない。
自分のほうからは人に語りだせない種類の苦しみがある。たとえば女性ならば婦人科系の病なども言い出しにくいだろうし、強姦被害なども難しい。心無い陰口を言ったり、立場を追い詰めようとする、非道な心を持つ人に弱みを見せることはできない。それを口に出すことで、自分の立場が危うくなりかねない場合には、誰かの何気ない話の内容がどんなトラウマを呼び起こそうとも、それには口を閉ざし続けるしかなくなってしまう。この、言えない地獄が、自由奔放に己の苦しみを吐き出せる人との圧倒的な違いになる。
自分についてをあえて語ろうとしない人には、きっと、語れない闇がある。
いつも好んで聞き役に徹しているわけではなく、やむを得ずそうしていることも考えられる。そうした、語れない人たちの心を救うためには、その人をいつも聞き役にさせたままではいけない。自分の話ばかりを聞かせたい傲慢な心を一旦どこかに置いて、いま目の前にいて、なにも語らずに微笑んでいる人の話を聞く役割にまわることではないのか。
だけど実際は一方通行なケースが多かった。「あー(なんかの病名)がつらい」だのといった不幸話を聞かされたり、また黙ったままで微笑んでいれば「悩みがなさそうでうらやましい」と言ってきた人もいた。こちらについては一切尋ねてこようとはしないのに、想像だけで、相手の苦しみまでも勝手に決め付けて、だから自分の話を聞くのは当然といったふうな者が実際にいた。
あーつらい!と思っていてもそれを胸の内に仕舞い込んでいる人がいるのに、あーつらい!と思ったまんまに口に出してしまうような人は、心が未熟で、周囲のことを何も考えていない。自分だけがつらいと勘違いをしている。そして、つらい!と外に向かって吐き出した言葉が、周囲の人々の心に感染してゆく。自分の中にとどめておけば、一人の問題で済んだのに、周囲も巻き添えにして不幸にしてゆく人がいる。そういう無自覚に周囲を感染させる人は、無言で耐える人の心の闇の中で殺されている。
自分の苦しみを理解してくれと一方通行なままでいてはいけない。人に話し聞かせたのならば、自分も相手の話を同じように聞かなければならない。それが出来ないのならば、なにも言わないままに、お互いに表面上の都合のいい部分だけを搾取しあいながら関わるしかない。自分の痛みだけを受け止めてくれる、そんな都合のよい存在などいない。
自分についてを語らないままに、いつも聞き役にまわっている人の話をたまには聞いてあげてほしい。そこには、あなたが思いもよらぬような苦悩が潜んでいるかもしれない……