嫉妬心を駆り立てるきっかけは、誰かが誰かへ投げかける「賞賛の言葉」である場合が多い。
例えば、「文章うまいな」「才能あるな」「書籍出せるんじゃないか」「この子は伸びるよ」「これはいい」「このブクマは伸びるよ」…などなど。
自分が褒められる立場なら嬉しいのだが、そうでない場合はあまり気分の良いものではないだろう。皆、それぞれ歩んできた人生によって「この文章は素晴らしい」と認める基準が異なる。
だから自分にとってはさして面白くもない文章に「これはいい」と賞賛の言葉が多くついている場合は、この世はもう終わりだな…と絶望を感じるものだ。
人間というのはいくつになっても根っこの部分は甘えたがりの子供のままなのだ。だから自分を褒めてもらいたいという欲求は誰もが持っている。だけどその欲望を誰もが満たされて生きているわけではない。
人を褒める時は、くれぐれも気をつけていただきたい。それはあくまでも貴方 一個人の人生背景を通した主観に基づく意見なのであって、それをあたかも「大衆の意見」であるかのように振舞うのは問題がある。
貴方はその人物の文章を「うまい」と思うかもしれないが、俺は必ずしもそうとは思わないからだ。俺は、きっちり型にはまったカタブツな文章よりも、臨場感あふれる文章の方が「うまい」と感じるからだ。また、文章がうまい=その思想が優れている、というわけではない。俗話の好きな馬鹿が、同レヴェルの馬鹿の打った文章を読んで「うまい」と感じただけかもしれない。この世は俗話の好きな馬鹿だらけだからな。
よって、万人が認める「文章がうまい記事」というのは存在しない。「文章が読みやすい」というのはあるだろうが、文章がうまいかどうかは、読み手の歩んできた人生によって感じ方が異なるからだ。一個人が「この人の文章はうまい」と心のうちで納得するのは良いだろうが、それをわざわざ公の場で口にするのは、何か別の意図を感じるのだが…(特にはてブにおいては)。
個人ブロガーが簡単にブログを持てるから、誰でも作家気分を味わえるからといって、文章を打つからには皆それぞれにポリシーを持ち、自分の文章こそが最高であると信じて疑わないはずだ。
貴方の呟いた「賞賛の言葉」は、その言葉を捧げた書き手には喜ばれるだろうが、 しかしそれと同時に、通り縋るだけの「書き手」である者すべての心を無差別に傷付けている事を自覚してほしい。
goo blog funamushi2 - 2006-11-30 03:06:08 コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )
コメント
Unknown (せい)
2006-12-04 02:27:26
ふむ、それはどんなことにも言えそうです。「かわいい」と誉めることは他の全ての女の子を敵に回すとか。
多分、文章や何かがその誉めた側に好感を与えたというだけで、その計り方が全てではないと思うのです。
でも私はだからこそ、いくら芥川賞に一年で忘れられちゃうよーなよくわかんない女の子が選ばれたってめげずに良い文章を書き続けますよ!
落書きみたいな絵だって時代が変われば評価されることもあるのです。私の落書きのような文章だっていつか誰かが「上手いね」って言ってくれるかもしれないし。
そして言われるならやっぱり公の場で言われたい。誰かに嫉妬の炎を燃やされても。
せいさんへ (hashigotan)
2006-12-04 04:01:13
その芥川賞の人については、賞を取った時点でそれがゴールになってしまったのかもしれませんね。(いやその人については全然知らないのですが、、
世の中は、そのような形式に囚われすぎだと思います。
学生時代の教師の評価にしても胡散臭いものがあって、金賞とか銀賞とか佳作とか、何だそりゃって感じでしたし。ああいう賞の類は胡散臭いですから信用してません。
継続は力なりで、俺も二年近く文章を打ち続けてきたので、だんだん読みやすい文章になってきたのではないかな… と感じています。嗚呼、でもそのせいで落ち着きすぎて瞬発力に欠けてきたかもしれません。
コメント有難うございます。
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