heartbreaking.

中年の末路とその記録

過去の自分の文章に戻るのは不可能/変化ではなく原点回帰しか望まれないアーティストは不幸

※文中に「フィードバック」という言葉を使っていましたが、「戻す」という表現に修正しました。

「梯子たん回想」の続編が出ないです。過去にお世話になった方へのお礼方々、ゆっくりペースで出す予定ですので待っていてください。

最近色々試作的に記事を出してみて俺が思ったのは、もうネットに存在していた「はしごたん」というブログ人格の「旬」は何年か前にとっくに「終わっていた」ということだった(もっと早く気付けよ俺、、)。

自分の昔の文章を読んでみてブーッ!て吹き出すほど面白くてビビったので、、(それはこの一連のストーカー記事を読んでいただけばわかります…)
「嗚呼なんとかこの過去の自分の面白さにもう一度戻れないものか」
と、最近は多少無理をしてあえて過去の自分にもう一度戻る文章を試みましたが、足を踏み外してタダ痛いだけの文章に思いきり滑って転んでそしてハッと周りを見渡すと観客は誰もいなくて… みたいなこともありました。
過去の自分の文章に戻ることは不可能ではなく可能だと思っていた。中身は同じ、まぎれもなく私であるので、他の誰にもできなくても、自分にだけは可能で、だからいつでも過去の人気を取り戻せるんだ的な幻想ですが、これは甘かったです。まず、自分の時間軸でしか考えていないことが問題で、他人の時間も同時に流れていることを考えられない自己中になってきて危険です。

たとえば音楽アーティストが現役時代に神がかり的な作品を排出していて、人々がいつまでもその人ではなく「作品」のほうに重きを置いている場合、「最新作では原点回帰すると本人は言っているがぜんぜん当時と違う」と残念がる意見がどうしても出てくる。ヘタこくと「違うじゃないか!」と叩かれたりもする。
でも作品ではなく「人」に重きを置いている場合は「これはこれでアリなんじゃないか」と認める意見がでてくる。その人の変化を楽しむ空気が作り出されることが、アーティストの柔軟性を育み、結果的により良い作品が生まれるんじゃないかと思った。
以下、長文すぎた為削除。