heartbreaking.

中年の末路とその記録

プラスとマイナスの境界線を埋めるのは、無言の中にたゆみなく流れる優しさだ

自分のマンションへ戻り、閑散とした狭いエントランスへ入ると、建物全体が、静かに迎えてくれる。この静けさが、たまらなく好きだ。人の気配のない中を通り抜けてゆくことがほとんどだが、ごくたまにすれ違う、同じ建物の住人たちは自分と同質の香りを漂わせ、それが安堵へとつながる。

自分がまだ結婚していた頃は、巨大な分譲マンションに住んでいたが、そこは子供のいる女たちの楽園で、その中で、子供のいない自分は異質な存在だった。こうして仕事から戻り、集合ポストへ向かう途中にも、赤子を抱いた若い女がこの視界に入る。心は一瞬で切り刻まれていた。……その姿は、自分が望む幸せそのものだった。 笑顔でエントランスを駆け抜ける幼女にむかい、怒鳴りつけてしまったこともある。すると、エレベーター付近で、その幼女がたどり着くのを待っていた母親が、ものすごい形相で俺のことを睨んでいた。ふざけるな……傷付いているのは、こちらのほうだ。 部屋の中にいて、窓を閉めていても突き抜けてくる。ギャーアアアかキャー!などのマンション内の子供たちの耳をつんざく叫び声に、次第にノイローゼになっていった。まるで巨大な監獄の中に閉じ込められて、感情を圧殺されているも同然だった。

そうした日々から逃れて、いまは、子供とは無縁のボロいマンションに住んでいるのだが、俺にとっての楽園は、どうやらこちらのほうだったらしい。 ポストをのぞくと地域が無料配布するフリーペーパーが入っているので、それを掴んでエレベーターに乗り込み、最上階へのボタンを押す。自分の号室のドアを開けて中に入ると、煙草の臭いが集積している。 友達に、煙草をやめていたんだが、また吸い始めていることを打ち明けた途端に、厳しい反応が返ってきたので正直かなり凹んだ。「今ある煙草を全部水に浸けて捨てろ!」と、おもいきり注意されたので吸っていないようなふりをしているが、それでも時々は吸っている。

離婚して、いまは一人であるし、子供も結局できなかったので、自分の健康に気遣う理由が見当たらない。この先の人生にまるで希望を感じない。不健康を選びたがる根底にあるのは、言葉にはできぬほどの、寂しさや悲しさだった。煙草に火をつけながら、心の迷いも同時に燃やしてしまいたい。

さきほどポストで取ってきたフリーペーパーには、見知らぬ赤子たちの写真が掲載されている。自分は年齢的に子供を持つことはもう無理だとあきらめているので、無邪気な笑顔を見ても、心になにも響いてこないのだが、こんな冷たい目で見られておまえたちの親は嬉しいのか。お察しのとおり、生ごみを包んで処理する紙としての使用目的でしかない。

このフリーペーパーに限らずだが、何故、幸せを手に入れた人々は、それを得られない人々に対しては一切の配慮などなく、自分たちの感情のみを一方的に押し付けてくるのだろう。たまには想像してみてほしい、逆の立場ならどうおもうだろうかと。

……お前がもし、子供が欲しいのに、できなかったらどうなんだよ。

自分の家族について語るのを我慢することは、そんなに難しいことではないとおもうのだが、どうしてもそれを誰かに語らなければならないのだろうか。さまざまな事情の上に一人で生きている人もいれば、子供のいない人もいるのだから、家族について語るのは相手の状況を確認しながら、よく考えた上でものを言うのが人に対する配慮ではないかとおもう。

俺がまだ結婚していた頃の話になるが、職場で、独身の方々と交流する際には、結婚の話は一切しないように配慮していた。結婚指輪も外していた。

相手にはわからないことを話題にあげれば、自分の話が主体になることは明らかであり、傲慢であると感じたからだ。

相手が聞き役に徹してくれたり、興味のあるように質問をしてきたとしても、その配慮に甘えて調子に乗ってべらべらと話しすぎれば必ず傷つけることになる。

その場では笑いながら話を聞いてくれていたとしても、家に帰ると、もしかしたら、なぜ自分にはそれが得られないままなのだろうかと、寂しい想いをさせているかもしれない。俺はそこまで想像する。

そこまで考えた上で、人にいちいち配慮するのはおかしいと言いたがる者もいるだろうが、俺からしてみれば、なんでそんな簡単な配慮が出来ないのだろうかと疑問におもうよ。

自分がなにかを語るときに、相手の瞳の奥に、かすかにでも悲しみが揺れていたならば、その話は早めに切り上げるのが優しさだ。それに気付いた上で、語り続けるのならば、それは言葉の暴力でしかない。

そして、瞳は相手の感情を如実に物語っているので、それを見つめることがとても大事で、そういう気持ちに気付ける自分であり続けたい。

あなたが、自分が得ているものを武器にしながら、弱い者いじめをしていることに無自覚であるならば、たとえば趣味の話など、お互いの共通の話題を見つけ出す努力を惜しまないでほしい。

自分にあたたかい家庭や、良い旦那さんや奥さんがいて、子供までいるのなら、それについてばかりを語るほうが、あなたにとっては楽に違いない。けれど、それを持たざる者が一方的に聞いているときの気持ちを、ほんの少しでも考えたことはあるだろうか。

それを考えることが、お互いにとって良い精神状態を生み出してゆくことに、どうか気付いてほしい。俺の願いは、あなたにとって難しいことだろうか。

言葉を飲み込むことは、そんなに難しいことじゃない。そうすることで人を傷つけずに済むのなら、今日からでもさっそく、余計なことを言うのはやめて黙っていればいい。黙っていることの優しさに、どうか気付いてほしい。

さまざまな事情の上に、人々が存在していることを考えれば、自分だけを基準にしてものを言うことがどれだけ愚かであるかは容易に想像がつく。自分は周囲を楽しませる意図で用いた話題であっても、同じ空間内にいる誰かは顔をゆがめている。それは、どんな場所においても同じだ。会社の昼食時間も、列車内においても、外食時でもそうだ。

大きな声で、とてもおしゃべりな人たちがいる、そういった、周囲を不快にさせる人たちには、致命的なほど想像力が欠けている。

さらに、恐ろしいのは、自分の幸せについてを語りたくてたまらないといった人々の話を、こちらが拒絶したときに、発せられる逆切れ感情だ。お前の幸せな話なんか聞きたくない!という感情をあえて伝えねばならない側の、切り刻まれるような悲痛な心など、わかりもしないのだろうな。

会社で、大して知りもしないような女が休憩時間に唐突に、子供の話を開始したときは驚いたよ……こちらは聞いてもいないのに、子供がどうこうと話し始めて、そして、がんばって産んだ!ということを誇らしげに伝えてくるのだが、それが俺の生きる意欲をごっそりと奪っていった。だから、そのあとしばらくの間は、心が床の上を這いずっていて、体は死にたいと叫んでいた。こんな悲しみなど、子供を産んでいるお前らには到底わかりもしないだろうがな……。

文句があるのなら社会に出てくるな!といったふうな意見を言われたこともある。だが、たとえ自分が少数派の意見を持つ者だとわかっていても、多数派の中へ飛び込んでゆかなければ生活が成り立たないので、少数派に近い思考を多く持つほどに自分の考えを殺さなければならないような局面により多く遭遇することになる。
だから、その場では笑っていても、心の中では傷ついていることに、気付いてほしい。

あなたにできることは、ただ自分の心を満たしたいがために語りたがるその傲慢な口を閉ざすことだけだ。

プラスとマイナスの境界線を埋めるのは、無言の中にたゆみなく流れる優しさだ。