heartbreaking.

中年の末路とその記録

色んな歌詞が、俺は不快だ。アンジェラ・アキも嵐もAIも嫌いだが、いきものがかりは好きだ。

正月だから、何が特別ということもなく、何も変わらないです。

富士山の背景に輝く太陽が、元旦だけ「ご来光」と呼ばれて特別なのは、人々の勝手な思い過ごしだと思います。いつも昇ってるんじゃないですか。

あけましておめでとうございます。いえ、何も、めでたくないです。

大晦日は、年越しそばを食べずに仕事しました。正月の1日も仕事です。クリスマスは職場で、先輩とカップラーメンをすすった。もともと、イベントにぬか喜びする人間でもなかったので、納得しつつ働いている。

すべて、おとぎ話のようで、自分だけ、取り残されてるようだ。

昔から、世間が疑いもなく祝うイベントに、心なしか抵抗があった。それが悪化しただけだ……大人の中二病……

正月はテレビで、いきものがかりの、カワウソにそっくりなボーカルの女の子が、サラサラの黒髪を揺らしながら、きらきらと輝く目で「ブルーバード」を歌っていたので、それはチョット泣きそうになった。そのあとで、SEKAI NO OWARIが、それって結局、自己中じゃないの?って思うような歌詞を披露していたのでチョットだけ笑った。

パフュームの3人は、個々に動きが洗練されていて驚いた。長い手足を、機械のような精密さで振りながら、これは口パクでも許せるパフォーマンスだと思った。特に、のっちから目が離せなかった。

さだまさしはシラミの歌と、メリークリスマスを叫んでいた。叫びを強調するために、そこに至るまではかなり抑えめにしているのが、雑な歌い方をするアーティストたちとは違うと感じた。年末にAIの番組観たけど、自分の歌に陶酔してるだけで、雑すぎて驚きを隠せなかった。

自分で作曲して歌う場合は、芸術的な域まで音楽を高めてから発信してほしい。それが出来ないアーティスト達の場合、メッセージは強いのに、その半分以上は歌い手の思い込みじゃないか?って思うような歌詞が、多くなってきている気がしている。それは、なんでも隠さず言えるネット社会の影響なのか。

色んな歌詞があるけど、それって正しいの?って疑問に思うことが多くて困っている。

アーティストが伝えたいメッセージが強すぎると、どのようなことが起こりうるかというと、それをたまたま聴く羽目になった、愛や希望を叶えられない者の心を、奥底から、掘り起こして粉々に砕いていると思うのです。そのことに、どうか気付いてくれたらと思う。

傷付く言葉だけならまだいい、なんとか踏みとどまれる。だけど、その傷付く言葉に歌がのっかってきて、それに感情込めて歌う人間がいて、それが世間で広まってゆくことは、ある意味、カタチを変えたテロ活動のよう……心を攻撃している。

目を閉じて、自己陶酔で終わるような歌い方をするようなアーティストの大半は何か勘違いしている。

必要なのは、歌を、作品として昇華することであると思う。なのに、自分の伝えたいメッセージを歌にすることに固執しすぎている。

学校の音楽の教科書に、今頃のアーティストの歌が使われているらしい。だけどそれは本当に正しいのか。

テレビでは、子供たちを周囲に並べさせた真ん中で、アンジェラアキが「手紙 ~拝啓 十五の君へ~」を歌ってたけど、そんな暗い歌を、子供たちに聴かせるなよ……うつ病に目覚めちまうかもしれないだろ……つらくても、子供たちが生きていられるのは、気付けなくていいことに、気付けないままでいられるからなので、そこは、そっとしておいてあげないのか。

つか、アンジェラアキってあきらかに、鬼束ちひろの初期の頃のモノマネというか二番煎じすぎる。嗚呼、今頃の人は、鬼束ちひろのファーストアルバムの残した強烈なインパクト知らないね。鬼束ちひろはすごかったよ昔は、俺はコンサート会場で彼女の歌声に泣いたよ。

西野カナは年末に確か「トリセツ」歌ってた。「爪がキレイ」って言われても、職種によっては爪を綺麗にできない女性だって大勢いると思うんですけど。そんな、お幸せな女ばかりじゃないです。まあ、そんなん言い出したらキリないけど。

えーと、いずれも別にファンじゃないです。いまは洋楽しか興味ねえから、邦楽の最近のはよくわかんなくて紅白も見ていない。嵐とか、歌超ヘボいと思うし、何であんなに人気なのかわかんないんですけど。嵐の連中がドラマもやたら出まくってて、その脇役を実力派俳優が固めるような構図になってるけど、いや、主人公こそは、演技の上手な人を選ばないのか(今度は車いすのバスケとか、井上雄彦さんの漫画のコピペですか?)。なんか嵐の話で終わるけど、いま日本がおかしくなってるよね、嵐だらけでさ。俺全然興味ねえんですけど?