heartbreaking.

中年の末路とその記録

子供の頃に優しかった自分は、何処へ行ってしまったのだろう

小学生の頃、クラスの中に一人、ダウン症候群のような外見の特徴を持つ女の子がいた。目がどこを見ているのかもわからず、しゃべり方も少し頼りない。会話をすると、こちらの心が不安になるような印象だった。

その子と学校の中で話すことは、私にとって特別ではなかったし、よく考えると、私はいつも一人でいることが多かった。

給食を食べたらみんな元気に運動場へ出て長縄で遊んだりしていた。私はその様子を窓から見つめながら、目の中に涙が溜まっていた。「仲間に入れて」「私もみんなと一緒に遊びたい」そんな明るさで輪の中に入ってゆけたら、きっと楽しいのに、それがとても難しくて、勇気がなくて、ほとんど生徒のいない静かな教室内で、皆が後ろに寄せた机をゴトゴト動かしたり、身をかがめて隠れたりしながら、早く掃除の時間になればいいのになと思っていた。

そんな一人ぼっちを強く感じる学校の時間を終えると、私は、いつ約束を交わしたのか、もう思い出せないけれど、その子と時々、一緒に遊んでいたような気がする。

少し悲しくて、優しい色合いの中、二人とも笑顔で、お互いが傷付かないで済む会話を繰り返していた。本当は気付いていないわけじゃなかった、その子が少しだけ違うことに。だけど、外見の特徴については一度も触れたことはなかった。傷付けたくないという心が強く働いていた。

家に招かれて、遊びに行ったこともある。その子のお母さんも喜んでくれたことは覚えている。

それから何年もの月日が流れて、私が大人になった時に、偶然出会えた同級生にこんなことを聞いた。

その子が、大人になった今でも、私に感謝していると。

一瞬、なんのことだかわからなくて、記憶を辿った先でぼんやりとその子のことが浮かんできた。私が、小学生の頃に、友達だったことに特別な想いを抱きながら、ずっと覚えていてくれたのだ。

子供の頃に一緒に遊んだという、それだけのことをいつまでも覚えていてくれて、大人になってもまだ感謝されていることを知った時に、外見のほんの少しの異なりで、皆と仲良くできない孤独と、そこから微かでも救われた時の光の重みを感じた。

どんな学校にも、体の不自由な子供や、ダウン症の子供、色んな身体的な問題を抱える子供がいると思うけれど、そういう子を見たら、是非優しくしてあげて欲しいと思う。外見の特徴を悪く言うような残酷な子供ばかりではないと思う、子供でも何が良くて何が悪いのかはきっとわかる。現に私は子供時代には、誰にでも優しく接していた。

それは大人になって、きっと自分のかけがえのない財産になる。

何故こんな話をしたかというと、テレビで、ダウン症の人の姿を見たので、隣にいた彼氏にこのことを話してみただけなのだ。

彼氏は、お前優しいなあ、と言ってくれたけれど、でもそれは子供の頃の私にとっては、当たり前のことだったのだ。

いつから優しさを忘れてしまったのだろう。

人に傷付けられても、その悲しみを、けして人にぶつけることなどしなかった、あの日の私は一体どこに行ってしまったのだろう。