何か嫌なことがあった時……最後には、諦めることにしている。
諦め癖は、たとえば会社で腹立つ人に言い返すかどうかという些細なことから始まって、子供を持つかどうかという人生の重大なことまで、一貫していて、気が付けば色んなことを諦めながら生きてきた。
だから生きている。いちいち真面目に考えていたら、今ここにはいない。そういう意味では、どこか不真面目だったかもしれない。でも、人と争う前に、諦めて離脱することで、これまでの人生で出してきた損失はいくらだろう。
あらゆる被害者が、国や企業に対し、裁判を起こすニュースを見る度、嫌な気分がする。夫婦が離婚する際に、片方が必死で働いた給料を奪う養育費の問題があるが、奪う側を責めたい気持ちになるのは何故だろう。
人から、お金も含めて大事なものを奪うことの出来る人は、心がない。俺は肉体的にも金銭的にも、人から大切なものを奪うようなことをしない。たとえば不倫などで一時的に奪っても、いつまでも馬鹿みたいに執着せずに奥さんのいるところに返してきた。
格好良く言い過ぎた。ポテックスさんは正確には、帰っていった。
幼児期に従兄弟に監禁されて、長い期間心と体を痛めつけられる中で学んだ。人が優しくなれるのは、完膚なきまでに肉体と精神を同時に傷付けられた後。そういう経験をしないと、どれだけ痛いかがわからない。
どんな時も、最後には自分が折れる。相手を過度に追い詰めるようなことはしない。
人生を、暴力で奪う権利が誰にもあるわけがない。
漫画やドラマなどで顔にビンタするシーンがあるが、俺は今まで生きてきて一度も人に顔にビンタされたことがない。
人を殴ったり、ビンタを食らわせることのできる人は、相手の人生すべてを知るわけでもないのに最初から軽視すると共に、全面的に否定もしている。まず話を聞いて、それを理解出来なくても、話し合いを根気よく続けることが、相手の人権を守ることになる。暴力をふるった時点で考えることを放棄しているので、考えているという道理は通らない。もしかしたら、悪いことをしていた過去を持つ人が、ただ自分を立派に見せたいだけで、それ以下の微細な罪を持つ人に対して暴力をふるっているだけかもしれない。そうした暴力を正当化するような言葉を後でいくら吐いても無駄で、暴力で黙らせたり、無理やり前を向かせようとする人は、忍耐力が欠けている。昔は学校で教師が生徒を殴っていた。誰も悟りを開いていないし、誰もが愚かな面を持っていて、誰が誰より勝る立派な思想を持ってるわけでもない。人を殴ったりビンタを食らわせることの出来る人は、人間の中に序列があるとすれば最低ランクの人で、何一つ話を聞くに値しないので俺は心の中では相手にしない。
俺が言いたいのは、とにかく暴力はよくないということなんだ。暴力は、純粋な会話の機会を奪う。
かといって言葉も難しい。いついかなる時も、論理的に答えを導き出す努力を怠らずにいたい。なるべく暴力をふるわずに話し合いで解決したい。
人の愚かさを赦すことの繰り返しにしてゆかないと、共存出来ない。
今付き合っている人とは、それなりに色々あったが、互いに腹が立つことが起きていても、暴力をふるわず、話し合いで解決してきた。一度でも殴っていたら今の状態はない。
俺はこれからも死ぬまで人には優しくあり続ける。
自分がどれだけ傷付けられてもそれは変わらない。
悲しみも悔しさも、時が徐々に解決してくれる。だから俺には出来るだけ長い時間が必要だ。理不尽に、一方的に傷付けられた、すべての罪を赦せる、その日が来るまで。