heartbreaking.

中年の末路とその記録

母が涙を流すまでやめなかった実家での無職の引きこもり生活を乗り越えて今は働ける人になっています。

私が実家に引きこもっていた頃の話をします。

引きこもる原因となったのは、まず、仕事を転々としたことでした。そして人と普通に会話できない。いつからこうなったのかわからない。

敬語でしか話せない。緊張して声が変わってしまう。その上、異常に「いい人」だ。人に嫌われることを恐れ自分の殻を破れるだけの勇気が出ない。

誰とも本心で語り合えず、いつもよそよそしいままで距離が開いている。

人前でハハハと声を出して笑ったことがない。これらすべてが今も変わってない。

なにが昔と今は違うのかというと、今は「諦めた」。性格を無理に治すことを諦めてから少しらくになれた気がする。

若い頃はこの性格や言動を笑われたり、馬鹿にされることも多かった。

自分の中に入れさせない壁を作ることにエネルギーを使いすぎたのか、仕事に本腰入れて取り掛かる頃には無関係な部分で膨大なストレスを抱えていた。

周囲からは仕事に対する姿勢などは特に問題ないように思われていたとしても、私の中では重大な問題と感じていたこの性格への違和感から逃亡する以外、それ以上長い期間は耐えられなくなる。

当たり前のことを当たり前のように出来ている人々の当たり前の言動によって傷付けられ、異なりが波紋のようにこの心の中で広がり続ける。

自分は超変わった存在だ。いつだって偽造されている。そうしたのは自分だろうが、疑いたくなる根深い要因がある。幼少期にどんな心の痛みを感じたか。変えたいと思ってももう不可能で共存するしかない。

さらに、学校を卒業してからいつしか形成された性格というのは根が深く、治すことは難しい。

学校を卒業するとそれぞれに恋愛をしたり家庭を持つなどの異なりが具体化してくるのもある。

自分を肯定してくれる、親以外の存在が裸で抱きしめてくれるかどうかが、卒業後の社会人としての性格に、社交的かどうか、言葉遣いはすぐにため口になるかあるいは敬語のままか、などを本人も気付けぬうちに静かに形成し、気付いた時には治せない。

最悪な辞め方を繰り返してきたので、逃げ場のない自分を感じ、実家の四畳半の部屋に閉じこもる生活へと、繋がっていった。

長い時は、半年、1年、働きもせず実家でゲームをして過ごしていた。親の扶養範囲内に入れてもらい、転々とした職場で受け取った給料を使い果たし、その上借金をしながら、そのことを言えずに。いつしか借金は200万を超え、天井張り付き状態となっていた。

この命を引き延ばしてくれたのは、その期間食わせてくれた両親のおかげだった。

しかし、それと同時に両親がいなければ、母が自分を産まなければ、当たり前のことすら出来ない、最悪な塊を直視し続け、当たり前のことが当たり前に出来ている人にはおそらく最初から存在もしないような絶望も与えられなかった。

実家は築年数のかなり経つ木造住宅で私の部屋は2階にある。

1階では父や母が生活しており、両親共働きだった。仕事で疲れた母が帰宅するドアノブを回す音が聞こえると、私は二階から階段を駆け下り、勝手口に置かれたレジ袋を探った。今日のお菓子は何だろな……それだけだった。

風呂もろくに入らない、いつも寝間着姿で、美容院も行かず髪も伸ばし放題で一つに縛っている、二十歳過ぎた娘がポテトチップス一袋掴んで、何も手伝いもせずまた自分の部屋に戻ってゆく。

私が無職になっても、両親は、再就職するまで忍耐強く待ち続け、いつも通りに接してくれた。お前はやればできると励ましてくれるのも、実力以上に飛躍する根拠のない自信と楽観的な思考力に栄養を与えてくるだけで、同級生が結婚し子供を持つ情報も入る中、そのギャップに耐えられなくなり、社会からあらゆる面で落ちこぼれていった。

父は当時稼ぎが良かったので「お前一人くらい食わせるのはなんともない」「焦らなくても、お前に合ったいい職場が見つかる」と言いつつも、時折「そろそろいい職場は見つかったか?」と尋ねてきたり、求人誌を持ち帰り「ここに電話してみたらどうだ?」と様子を窺ってくることもあった。

私はこの時、両親に対して、すまないと思う気持ちはなく、ただ自分の部屋に早く戻りゲームの続きがしたい、好きな音楽に陶酔しながらパソコンで絵を描く時間に没頭していたい、そのために生きているという感じだった。

無職であると気分の変えようがない。よって部屋替えをすることが多く、ベッドを四畳半の真ん中に置いてみたり、かと思えばベッドを捨て布団敷き流しでローテーブルで起きてる間中ゲームをしていたり、あるいはそれらすべてをある日捨ててしまい、ソファで寝るなど、同じ空間の中で快適に暮らすため予算の少ない中もがいた。

ゲームでレベル上げをしていると、いつも手が離せないところで一階から、食事の支度が出来たという母の声がするので、渋々、六畳の部屋に入ると、父と母と私、三人でテレビを観ながら食事をする。それは無職の期間、ほぼ欠かすことなく、だいたいは父の仕事の話であるが、食べ終えると、引きこもり期間が長くなり過ぎていて流石に何もしないのは居づらくなると感じる時は、食器洗いはした。

洗濯も含めて家事をほとんどしない私だったが、食器洗いをすると、母が感謝の気持ちを伝えてくるので、その言葉を信じ、一応この家にいる自分の義務は果たした気分になれていた。

どんなに仕事で疲れた母がボロボロになって家の用事をしていても、私はほぼ見て見ないふりをしていた。自分はなにか特別な存在だと思うようになっていった。

根拠もなく、なにかを成し遂げるような、そんな未来を漠然と見ながら。

鏡も見ずに、想像の中の自分だけが肥大化していった。

引きこもり続け太陽の光を浴びず、親以外の人とは会話もしない、ただゲームをしたり好きな絵を描いているだけの自分を守りたいと思った、いまはそうしなければならない気がしていた。

背骨の突き出た座椅子をきしませ、親から与えられるポテトチップスを一枚一枚味わいながらゲームをするのが自分に課した楽しい仕事だったが、ラスボス戦が迫る頃には、寂しい音楽と、殺伐としたフィールドの中を彷徨う自分が次の居場所を求めていた。

なにがつらいのか、決定的なことから、そうではないことまで、すべてが複雑怪奇に絡み合い、考えることを放棄して、らくな方向へ逃げていたい、そんな時、自分には特に何も言わないでそれを許してくれる両親と、その両親の経済力があった。誰も、精神病だとは思わなかったので、自分は精神病ではなく、親も含めて周囲からは、ただ怠けているだけの人だった。

無職の引きこもり生活もとうとう1年を迎えると、家族三人で食事をする時も、私の些細な言葉の選択ミスから偉そうな態度がわずかでも察知できると、父がそれを発端として不機嫌になることも増えていった。

一応、近所の目もある。身内の間でも、どうして私が働かないのか、引きこもっていつも何をしているのか、ということが陰で噂される頃だった。

そしてついに、母が涙を流しながら、いつまでこんなことを続けるつもりなのか、お父さんもお母さんもあんたを養うために必死で働いている、と訴えてきた時に、私はかなり動揺した。

母の涙を見たその日はガックリし、観念して何処でもいいから働き始めねば流石にまずいだろうと思うようになり、そこからは面接をあちこち受けて、まだ20代と若かったのもありすぐに働き口は見つかったが、その後もやはり自分の性質の問題があり、仕事は転々とした。

治らない、治せない、いつの間にか完成形へと至った自分の性格の奇妙さを指摘してこない会社でしか働けない。今の会社はほぼ一人で黙々と作業をすることが多いため、私の性格について指摘してくる人はいないので、毎日残業がありますが働けています……

引きこもりで実家から出られない時期が必要な人もいる。

大事なのは、その期間があまりにも長引きそうなら、家族あるいは周囲が、ここぞという時にそのままではいけないんだと、もう体当たりで伝えてゆくしかない……あとは、自分の奇妙さに触れないでいてくれる会社を探すことです。