heartbreaking.

中年の末路とその記録

自分の文章を、自分が見ることで、理性的に考えを改めることができる

私はタイピングが速いほうだと思うので、たとえばブログの文章を打つときは、脳内に浮かんだあいまいな思考すら指先でキャッチして、あいまいだったものを即時にテキストエディタに文章として反映できるため、私のブログの文章は、まさにその時々の私の頭に浮かんだことがだいたいそのまま出ているので、文章は死んでいないし、血が通っているものが多い。読書をしない私でも過去にそこそこ人気があったのはそのためです。

よーし今だ!…と、文章を打ちたい気分のときにキーボードに身をゆだね、勢いのままにブログで文章を「一度は」公開してみるものの……、最近は削除することが多いです(逆に追記することもある)。

こんな私にも守りたいものはあるらしく、特にケッコンしてからは「そんなのわざわざ記事で残す必要あるのか」と、ばくぜんと、それによって失うかもしれないものに、ときに心がおびえたり…
または私を知るリアルの人間に気づかれたときにどういったリスクを背負う羽目になるのか想像してみたり…
そのリスクを負う危険性を知っていて尚、この文章を出し続けることで、この日常を続けるにあたって不安を感じたり・なにか後ろめたさや、常に暗い影を背負い、人を見ては「ネットの自分を知りはしないだろうか」と疑ってなんだか落ち着かない思いをしたり…

ネット上に自分が出した文章で、現実世界の自分の人生を、おびやかすことの愚かさに気づいている。そうまでして、その時々に感じた気持ちを、ネットの見ず知らずの人間たちに公開し続けるのはなぜでしょうか。

私は友達が少ないので、何か日常に悩みがあっても打ち明ける人がいないのでブログで悩みを打ち明けます。私の一方通行だけど、そういうときは返ってくる声がないほうがよいです。

悩んでいるときは、誰の声もなくてよいのです。ブログに悩みを打ち続ける中で、時に怒り・叫び・泣き… それらの自分の感情を、一旦、文章を公開した直後に、自分自身がブログを見ることで、もろに目の当たりにすることになります。直後はそれでただストレスが発散できたと納得してみるのです。

…しかし、しばらく時間を置いて再び自分の(たとえば)怒っているときの感情をあらわにしたブログにすでに公開済みの文章を見たときには、少し客観的に、距離を置いて自分を見ることができます。
この時に「あっ、恥ずかしい!」と思ったら、文章を消すのですが、日記帳に文字を手書きするのではこの恥ずかしい!という過程に気づかないかもしれません、ブログは不特定多数の人が見るので、恥ずかしい!と感じることができます。

そこで再び自分のどこが恥ずかしいのか、それを改める作業に入ります。その段階で、少しは理性的になれていますから、たとえば夫婦仲での悩みだったり、自分にとって不快なものだらけの世の中への怒りだったり、それをうまく受け流すか呑み込むかして自分が生きていくためにどうすべきかを考えるようになります。

そんなもの自室の紙切れにでも書いとけ、真面目に検索する人の邪魔、テキストエディタに打っただけで満足しとけ、ですが私にとってはブログで一旦公開してしまう、という過程が結構重要で、それによって「恥ずかしい」と感じたら消す、というのを多分今後も繰り返すと思います。