heartbreaking.

中年の末路とその記録

痛みとの闘いの中に人それぞれのドラマが生まれる…

整形手術で、少しは痛い思いもしたので(全身麻酔で体にメスを入れた) 少々の痛みには動じないと思い込んでいた(つか、お前一体ナンの手術したんだよ、と)。

でも年月が経つにつれ、そんな闘い(?) の中で得た強さなど所詮その時だけのものだと思い知る… 現に私は注射一本で内心非常にビビっていた。表面は余裕を見せているが、うぇっ… いひぇぇぃ…、お願い、痛くない看護士お願いします… だった。チクッ… イヤーン!って感じでしたね。だがこの痛みを乗り越えた先には自由時間がある(つまり家で遊べる)、そんな感じで今日も一つの闘いを終えてきたところです。

ずっと闘い続ける人が強いのであり、そうでなければまた元の弱き自分に戻るだけで、過去の武勇伝など、新たな痛みの前ではほとんど意味を成さない…(注射一本の恐怖で偉そうに)

病気の治療をする人は強いと思った。整形手術は綺麗になる、自分が変わるっていう「答え」があるから注射を何本刺されても痛みを我慢できるのだけど、そうではなくて、答えの見えない何かの病気を調べ治療するために注射を何本も刺されたり、仕事に支障きたす副作用あるかもしんねえ薬を飲むほうがはるかに勇気いる…

嗚呼、病気と正面から闘う人は強い… 今後自分も年をとるにつれ病院にお世話になる頻度もあがるだろうけど、自分は一体どんな病気でお世話になるのか…(いや、なりたくない) そんな考えつらつらの時、周囲を見渡すと、年寄りには家族が付き添いにきているところが多い。嗚呼… やっぱ子供いたほうが、将来自分が弱ったときもしかして助けてくれるかもしんねえ(まったくの天涯孤独の身で病気と闘うのってどんなだか想像もつかん…)

つーのも、私の母が大怪我して入院したとき、私が付き添いに行くまでの間、足の悪い母が窓際の日当たりの良すぎるところに車椅子ごと放置されていることがあったし、尿袋がいっぱいであふれそうなのに気付かれていないとか… まあ看護士さんも忙しいので一人一人細かく見れないから仕方ないのだけど、付き添いがいない(家族がいない) とそうなる可能性がある…

病気と闘う強い意志をいつまでも支えてくれるのは、家族がいるからじゃないか…まあ家族の意味とか大事さとかあんまし深く考えない若いころは、自分が入院しても手術しても自分のことしか考えてなかったけど、今はそうじゃない。自分が生きるため、それだけのために病気と闘うとしても、そこまでして生きて何かしたい特別なことがあるわけじゃない。

自分には守るべき人がいるから闘わなければならないという理由で、誰しもが痛い・苦手な治療を我慢して受けてるんだろうなあ…
一人一人に、ドラマ以上の素晴らしいドラマがあるんだよ、きっとね。