記事を出したけど俺なりの美学に反するので、消した(たかが個人ブロガーが美学と笑うかもだが、俺の中で「合格」「不合格」のラインが一応ある)
「嗚呼こいつ終わったな」的な文章うっかり垂れ流して気づかないでいると「あっ!」と気付いたときまわりには本当に誰もいなくなってしまうので、ギリギリセーフなもんしか出してない (要所要所の判断が、一つのブログ人格の価値を落とさず維持していく上で大事になってくる)。
本当の俺はもっと最悪なんだ… ただ、それを出さないでいるだけで。どのように最悪かというと、それはここに出さずにメモ帳に7年以上溜まり続けている没文章を知る俺だけが知っている。
実はその没文章こそが、俺にとって大事なことだったりする。
自分の状況は刻々と変わってゆくので、何かを意見するにしても、その時おかれた状況によって変わってくる。長くブログを続けるほどにダブルスタンダードが多くなって、古い読者には「昔と言ってることが違うじゃないカ!」「謝れ」と言われるが、そこまで言い出したら他人に向かって何も言えなくなる。たとえ将来、その考えに変化が生まれるとしても、その時感じた気持ちに嘘がなければ、騙したことにはならない(と俺は思うが…)
悪人は悪人のままで、不幸な人は不幸なままで、それじゃあまりにも救いがない… 生きてる限り、状況に応じて考え方も変化していく。
他者から俺がどう思われてるのか知らないが、自分では「梯子たん」というブログ人格はナカナカ素晴らしい出来で最高傑作だと思っている…
この記事はなんとなくイカン!と感じたら即削除。キャッシュとして残らないうちに、魚拓にとられないうちに、少しでも早く削除してきた。俺は本当はくだらない存在なのに、そんなくだらなさは都合よく削除して見えなくしてきた。
だけど「もう勘弁してください」「これは… マズイ」と思う過去の危うい一文にネットの恐ろしさを知ることもある。
gooブログにいた頃の話。
ふざけた名前をつけられた子供が殺されて路上に捨てられた事件に対して俺は「なにがユキマロちゃんだ(ふざけた名前をつけるからそうなったのだ)」のような発言をした…
この一言以外にも何か書いていたのだが、最終的に「なにがユキマロちゃんだ」の「一文」だけがいつまでも残っていて、それが執拗に悪意を持って繰り返されている。
ネットでうかつな発言をすると、その文章の一部分だけを切り取られ、それが悪意を持っていつまでも繰り返されることがあるので…
自分を証明できる場をなくしてしまえば、人々の記憶も薄れゆく中で、望まざる文章の一部が、どんな悪さをし始めるかわからない…
過去の発言に失敗がありそれを完全に消すことはできなくても、今の発言の中の一部分へと変えてゆくことはできる。
ネットで何か意見することは、自ら人質を差し出すようなもので、それが原因で後でどんな脅迫を受けるとも「弁償しろ」と迫られるかもしれない。
一度ウェブ上に垂れ流れてしまった己の文章はだんだんコントロール不可な状況になる。
実名を出さなくても、たった一文で、その人を見分ける鋭い嗅覚をもつ人間はいる。ネットなら安全ということはなく、どこにも逃げ場はなくて、悪いことをすれば必ず報いを受ける…
久々に、現実世界で何の役にも立たないことを考えすぎて頭痛がしてきたので今日はこれで終わりです。