女性が性暴力を受けたと主張するのを見ると、しんどいです。世界的にもイスラム系で性暴力は絶えませんが、そういう暗いニュースはあまり見たくないです……
被害を受けた女性に共通する悩みは、おそらく、加害者の存在を自分の中でどう折り合いを付け、生きてゆくのかだと思います。elveさんとDMで話していると、以下の質問をいただきました。
桂三は、私に性暴力をふるった男の名ですが、その相手に惚れていた部分があるのかどうか?という、ちょっと聞きづらいような質問でした。ですが、興味を持っていただけるのは有難いです。
性被害者は、自分を傷付けた加害者のことを好きになるようなことがあるのだろうか?という問題に、興味を抱く人もいるかもしれない。
この問題は、性暴力を受けた直後から自分にのしかかっていた。
加害者のことを好きなのか嫌いなのか、この問題と上手く折り合いをつけなければ、自慰に及ぶことすらも困難になる。
好きじゃない、嫌いだ、と頭の中から振り払おうとするほどに、「好き」と甘く、「愛してる」と強く叫んでくる声を止められなかった。
好きになったり、愛したりすることは、痛みや憎しみから偽造されることもあるんだなと感じていた。だんだん自分がわからなくなっていった……加害者の顔や、醸し出す雰囲気は好みじゃなかった。それが、自慰に及ぶたびにこの精神に覆いかぶさってくる。
自分を傷付けた加害者を「好き」「愛してる」の言葉が、自慰中の、この頬を無限に嬲ってくるので、心が歪にへしゃげてくようだった。どんなにその行為を嫌悪していても、性欲は抑えられなくて、その度に加害者の幻影に抱かれることになる。
私が今、許すとしたなら、それは何故、性暴力をふるうようなことをしたのか?という「理由」が聞きたい。どんな酷い理由でも構わない。本当のことを聞かせてほしい。
この問題については、書籍を出す際に、編集者に問われていた部分だった。私が、加害者に危害を「与えられる」と表現していることに疑問を感じたようだった。そこは、危害を「加えられる」ではないのか?と言われて、その時まで自分の中にある矛盾に全然気付かなかった。
もっとも気になっているのは、桂三に対して憎しみ以外のものがあるのか? 親近感とか? ということだ。
言葉使いがへんなところがある。 あなた、とか与えられる、とかだ。あいまいに思っているとこはしっかり書けない。しっかり書いているところとの差が目立つんだよね。
加害者は犬が好きなようだった。その犬を可愛がる姿を見ていると複雑な気分だった。笑顔や、人間らしさを見るたびに、被害を受けた自分のほうが悪いのだろうかと思うことすらあった。
加害者を「好き」「愛してる」という悪魔の囁きが、私を矛盾だらけの世界に突き落とした。
私がどうやって、この矛盾から抜け出たのかというと、それは過去ログで以下のように伝えた通りです。
私は複数の男と激しいセックスをすることで、幼稚園の頃に受けた性的虐待の苦しみを打ち砕くことに成功したのだ。
言葉を選べよこの野郎
当時はスレ住人に笑われてたこの言葉だけど、性暴力を受けた人間が、その記憶との折り合いをつけるためには、荒療法が有効なのだと私は思う。
以下の榊まさる傑作選 1 ~乱暴な求婚~の中に収録されている「淫獣病棟」が、私の考えと合致している。
痛みを消せるのは、それを圧倒的に凌駕する痛みでしかない。
被害を受けた後に出会う、どのようなぬくもりがこの心に降り注いでも、それは過去の自分の哀れさを思い出させる、残酷な刃へと変わることもある。
例えば、過去に性被害を受けているのに、水商売に勤めていたり、風俗にいると、それに関わる男は「そんな昔話、本当だろうか?」と疑問を持つか、その女の過去を軽視するかもしれない。
あの子、性被害を受けたというのに、あんなにセックスを楽しんでいるから、もう平気なんだろう、過去の痛みなどなくなったのだろう、と思うかもしれない。
けれど、そういうわけではなく、それを繰り返さなければ塗りつぶせない痛みもあるということを知ってほしい。(アソシエイト閉鎖につきリンク削除)