heartbreaking.

中年の末路とその記録

人が人を糾弾したい時、弱者を用いたがるのは何故か

テロや事件で誰かが負傷したり死亡するとすぐに「罪もない子供たちが」のような報道を行い(たとえば子供が負傷した写真を一面に使用したり……) 同情を得ようとするために大人たちが子供を利用しているのに、汚さを感じる。

人が人を糾弾したい時、自分のことは持ち出さずに、すぐに、誰の目にも明らかな、都合のいい弱者(子供など) の存在を持って、正義を語りたがる傾向を見聞きするたびに、綺麗事だなと思う。

罪もない大人たちが……とは言わないので、大人は罪もないとは言い切れないってことか。生き続ける中で大人はどこかの地点で薄汚れているという自覚を持つ者ほど、自分にとって都合よく扱える弱者(子供など) をすぐに盾に取ろうとする。だけど、大人になっても、人間として超えてはならない一線を越えずに生きる人々の存在があるってことを忘れないでほしいし、薄汚れた大人と、そうではない大人を混同して欲しくない。

子供ってまだわけもわからず生きてるだけじゃないですか。

自分のことを振り返ってみても、幼稚園に通うまでの記憶なんてほとんどないですよ。

だから色んなことを経験してきて、人生の蓄積がある大人たちが、負傷したり死亡することを軽視しないでほしい(いや、軽視してないんだろうけど、子供ばかりにスポットを当てる海外のニュースが多いので)。

たとえばテロや事件が起こって現地で大人と子供が倒れている場合、子供のほうを優先するんですか?

人間は、ただ生まれただけで価値があるとか尊いというわけではないと思うんですよ。長く生きてく中で、どれだけ他人に優しくできたか、他人を傷つけずに人間らしく生きられたかのほうが尊いと思うのです。

この世に生まれて、どのあたりから、自我が芽生え、本当の意味で世界を認識するようになっていたのか。
世界を認識するようになってからが、本当の意味での人生のスタートかもしれない。アルバムの写真の中で、いくら笑っていても、泣いていても、まったく身に覚えのないことについては、ただ、なんとなく、この世界に身を置いていた、というだけで、生きていると呼ぶには、頼りない。

この世に生まれ落ちて、私の記憶が、どこから始まったのかはわからない。
幸い私は、親にはまあまあ大事に育てられたので、アルバムの中には何ページにも渡って、幼い頃の写真が沢山納まっています。ですが、覚えていないのです。

写真の中にいる、お前は誰だ…
まったく身に覚えがないのに、それは私だってことになっているらしい…
写真の中から、今の自分に何か大切なことを伝えるためのメッセンジャーのように思える。その口が動くことはないけれど…

貴方は、何歳くらいから自分の行動や、誰かから与えられた影響を感じ取れるようになりましたか。

おそらくそれを自覚できてからこそが、人生の始まりだと思うのです。