heartbreaking.

中年の末路とその記録

暴力の重み

警視庁の「配偶者からの暴力事案等の検挙状況」では、H28年度の殺人2件に対して、暴行4,409件、傷害2,991件で、DVですぐ殺されるわけではなく、苦しみが続くことが想像できる……暴力は、突如としてそうした過去を聞かされることもあるので、心構えとして知っておいたほうがいいのかも……

この間、私の彼氏が昔、女に暴力を受けていたという話を聞かされている時間は、拷問のようだった。昔付き合っていた女に、車の運転中に横から蹴られていたと言う。殴ることもあったという……まるで自分が蹴られたように、体の内部に亀裂が入る思いだった。私は、この場に居ない、その女に悪態つきたくなったが我慢をした。

人を実際に殴ったり、蹴ったりする人の気持ちがわからない。その暴力をふるう本人の背景に如何なる問題があろうと、理解する気にはならない。

己の人生の重さにより鍛えられた精神で暴力はまず働かない。軽い人生と未熟な精神であるとすぐ暴力に及ぶ。暴力の重みを知らない。傷付ける相手の人生すべてを否定しながら、己の我儘を通す。

自分の命を尊重すれば、自ずと相手の命も尊重する。暴力をふるう人は己の命の価値を気付いていないのか、無謀なことを平気でやってのける。私は相手にわずかな痛みを与えることですら怯えている。

……いつも面倒事になると争いを避けて、無難な道をとる自分は、臆病かと思い、後々悩むことが多かった。最悪の事態を考慮していた。本気で怒れば相手を殺してしまうかもしれない。……これまで一度も暴力をふるわなかった自分は、0か100か。だから自分がどんな道化になろうとも、暴力を避ける道を選んできた。

あの時、自分を侮辱した人に殴りかかっていたら……蹴りを喰らわせていたら……どうだと思うことはある。

怒りに燃え上がる精神を押し殺して、道化になる度、プライドを何度も捨ててきた。

それらの屈辱の過去を心の中に閉じ込めたままで、己の存在価値を否定せずに生き続けることは難しい。

暴力を受ける側になったことがあるが、他人に暴力をふるうことはなかった。

痛みを知る者ほど、暴力をふるうことの恐さがわかっている。たとえ冗談でも他人の体に不必要に力を加えることに、重みを感じる。

現に、人を冗談で軽く叩くことすら出来ない。指先に、物凄い重みがのしかかってくる。

たった一度、力を加えることで、生きる意味を崩壊させる恐怖が全身を包み、動けなくなる。

冗談で、友達を叩いたり、蹴ったりできる人がいる。

そうした不要な力を加えられる度、人の体に微かでも傷付ける可能性を含む行動の重みを知らない人なんだなと驚く。そうした我儘さを前にして、躊躇する自分が、無邪気に触れようとしてくる指先に突き落とされた10代、20代の頃、闇の底で囁く声が聞こえ続けたが、耳を塞いでいた。

……暴力を許さない。暴力をふるう人間の餌食のままで、死ぬことよりも、成すべきことがある。その声を鮮明に聞き取れたのは28歳になった時、ちょうどブログが流行っていた頃だった。ネットの力を使おう。

暴力をふるわれた人間が、どれほど苦しんでいるかということを伝えてゆくことだ。今日に至る。