夜の海を眺めながら……「このまま海に落ちたら、私を助けるために飛び込んで助けてくれるんだよね」と尋ねてみた。
彼は当たり前だろ、と答えた後、少し考えて、冗談を言いたくなったのか「助けを呼びに行くけどな」と付け加えたので、私は両手をバタバタしながら「命がけで守ってくれるって言ったよね」と口を尖らせた。
苦笑いをしながら「飛び込むよ」と言って、彼は短くなった煙草を海へピッと投げ捨てた。
黒い海は、見ていると引きずり込まれる魔力に満ちていた。
彼とは社内恋愛で、だけどその事実は二人以外、会社の誰も知らない。
職場に行くと、今日は彼が来ているのか気になり、元気に働いている姿を見ると安堵する。そんな繰り返しで、お互い会話するための時間を作り出せずにいた。
男と女が親しくなろうにも、会社の中では周囲の目もある。
そんな環境の中で、目で追うごとに勘違いが進んでしまう。
密かに姿を追いかけていても、心の中で勝手にストーリーが加速するだけで、実際は止まったまま……
それが、社内にいる「ちょっと素敵な人」を、より魅力的に思わせてしまう理由かもしれない。
気のないふりをしたり、見ていることを気付かれぬよう動作を意識したり、そうして時々視界の隅を横切る、その顔・姿を……心の奥で大事に温め続けている自分がいる。
そんな気付かれぬ恋を、叶わぬまま続けることが、会社に行くための一つの楽しみであり、安らぎだと信じていた。
けれど、そのストーリーは幻ではなく、何気なく意識する時間の積み重ねの中で、お互いの思い描く現実にするための階段を上っていることを、抱き合う未来だけが知っている。
私が一人でいると、彼のほうから近付いてきて「仕事頑張ってますね」「しんどくないですか」と話しかけてくるから、「元気です」と答えて、彼も「そうですか」みたいに返すしかないようで、会話はあまり長くは続かなかった。
私は不器用なんだろうか。本当はもっと話したいので惜しい気はしていた。気のないふりをすることが、自信を持てない自分を……ようやく保てる唯一の選択肢だったのでそうするしかなかった。
……あの人、単にコミュニケーションを図ろうとしているだけなんだろうか。誰とでも話してるしな……
確かに、私は「いいな」と思っているけれど、向こうは気があって近寄ってくるわけじゃなく、気まぐれなんだろう。そう思い、過剰な期待はしなかった。
相手から何か言ってくるまで、自分は何もしないでいよう。
多くの恋の可能性は、おそらくここで止まっている。
どちらか片方が、幻のストーリーを幻のままで終わらせない勇気を持つことでしか、二人の未来は訪れない、永遠に。
後悔をしたくないのなら、たとえ1%の可能性のようにしか感じられないそっけなさを相手に感じようとも、飛び込むことだ。
彼女いるんだろうか。いるだろうな。家庭持ちかもしれないし。
何も彼のことは知らない。
実際、私は彼を見ることが会社に行く一つの楽しみであったといっても過言でないが、そこまで無我夢中というわけでもなかった。
可能性を楽しむというか、来るか、来ないかの賭けを楽しむ日々で充分で、飢えていなかった。
女の些細な変化に気付く男はモテる。
私はあまりお洒落しないので、どちらかというと目立たない女だった。伸ばし放題の黒髪で、顔を隠して、人に表情を悟られないようにしていた。
その私が、髪を短くして出社すると、彼は他の誰より早く気付き「雰囲気変わりましたね」「似合ってますよ」と言いながら、その日から滅茶苦茶急接近してきたような気がした。
私が髪を切ってから何が変わったのかは知らない。
だけど彼との距離が近くなってゆくのを、彼が私を見つめる目で気付いていた。
ある日、私が一人で作業をしているところに、ドアがバターンと開いて彼が物凄い勢いで飛び込んできて、「今度、俺の知り合いも入れて一緒に食事行きませんか」のように、誘ってきたのだった……
私がこうして一人になる機会を待っていたのかな……いや、しかし現にここにいる。これは夢か。少し年齢が若返った気がした。
だけど、一つ気になることがある。何で二人きりで会わないのかということだ。
彼の知り合いって誰だろう。女の人もいるのかな……この人、悪い人じゃないのだろうか?男ばかりの中に女一人でも酒が入るとなると危ないしなあ。でも仕事ぶりを見ているとそんな人には見えていないのだが……
後になってそんなこと考えたりしたけど、その場でOKした。
ほんとですかあ?わあ……いきます♡って答えると、彼もニカッと喜んだ笑顔を見せてくれて、じゃあ後で日取りを決めてまた知らせるのでと言って自分の作業に戻って行った。
その日は顔がニヤケて、私は不審人物状態だったな。
自分の作業を終えて、皆のいるところに戻ると、二人で会う約束をしたことをおくびにも出さず、彼はいつも通りそこにいる。その日からずっとヘンな感じだった。
いつ食事に行くんだろう……
それからなかなか彼と二人きりになれる時間がなかった。いつも私たちの周囲には同僚の誰かがいる。だから焦っていた。
あの話は立ち消えになったのか……
そう思い始め、諦めが影を差してきた頃……私が一人で煙草を吸っていると、また彼がバターンとドアを開けて私のところにやってきて「〇月〇日にJR駅での待ち合わせにしましょう」と言って、千円札をむき出しのまま私の麓に置いて、「これ、タクシー代で、これ使って来てください」とまた元の皆のいる場所に何事もなかったように戻っていった。
え……(呆然)麓に置かれた千円札数枚を慌ててポケットに仕舞い込んだ私は、ま、まるで風俗嬢のようだな、と思いながら、でも彼を常識のない人だとは思わなかった。
会う前にタクシー代をくれるという気の効きように驚いた。
でもそれは、彼の押しの強さみたいなものもあり、これは面白い恋愛になりそうだなあという気はしていた。もう私の脳内では、この時から恋愛が始まっていた。
ちょうどその頃、齊藤さんにも会おうと思っていた。具体的に高松で会う話が決まっていた。
続く。