夜明けが早くなった。それとは相反するように気持ちは暗くなる。
夜が長いほうが、気持ちは落ち着いていられる。
明るい外の風景を見て、悲しくなる。光の中に似つかわしくない、明らかに異端であるし誰とも心通じ合わない。
過去がそうさせた。
束の間の刺激で得た感動はそう長くは続かない。すぐに思い出の一つに変わってゆく。
それが、拘り続けた遠い過去と干渉しあうと、こんなに思い出たくさん持ってるのに、複雑になるどころか、歳を増すごとに単純に済ませラクをしようとする自分が、これまでの人生の足跡を雑に一つずつ消してゆく。
けれど、永遠に解けそうにない問題がある。自分の記憶にない部分だ。その時間に何が起きていたのかわからない。
精神と身体の真ん中で極限まで凝縮された小さな点になって、この体の中から、ある人の名が、悲鳴をあげる。
それを誤魔化し続けるために、生きているような気がするのは、テレビのコマーシャルに映るような、子供と過ごす幸せな家庭を自分がただ一時でも作れない絶望感に断続的に苛まれているせいなのか……
悲しくてチャンネル変えたが、これでは気になる番組も観ることは出来ない。やはり精神科に行くべきか。
人を傷付ける行動は、相手の肉体を通過して精神に名を刻み付け支配する。
まだ支配されている。暴力をふるわれるということは、そういうことだと思う。
人間付き合いも、真面目を装って実はかなり不真面目になっている。もう、どうでもいい。将来の約束もいらない。孤独死するんだと、行き詰まりそうな時、心の中で叫ぶことが、唯一の慰めだ。
結局、誰も信じていない。
誰も理解しようとしてくれないからだ。
そしてお前を信じない。
光を浴びて輝く人々。何を憎んでいいのかわからなくなってしまうような時は、暴力を嫌う自分こそが弾丸へと変わる心でかなり暴力的だ。
知らない女の、幼子の手をひく眩しい姿。
ベビーカーを押しながら歩道をゆっくり進む若く美しい女。
眩しすぎて、太陽の光がそんな姿を鮮明に映し出す。心に焼き付いてしまった。
良く出来ている。彼女らの得ているもの。
心が綺麗だとか、汚いとか、関係ない。
心が汚いから、子供が出来なかったわけではない。
……この人生は、明らかに失敗だったが、それでも、続けるしかない……
瞳を閉じればいつでもこの心の中に夜は訪れる。
夜のスーパーやコンビニに独りで行くことで、同じ独りの人の風貌をなんとなく探っている時もある。そして言葉を交わさず感じ合う仲間意識が、「気にしているような、そんなやつらばかりじゃない」と孤独の表面を柔らかく撫でる。
孤独な者を無言で癒せるのは、孤独な者だけだと信じている。
そこで、一組でも子連れがいると、崩壊する。子供の泣き声一つで、すべてが幻想だったと気付かされる。子供が嫌いで、子供が苦手で、子供が最初は好きだったが理由があって避けざるを得なくなった大人のことを、世の中はまったく理解しようとしない。
だからこちらも行動時間や、休日にどの店に行くかもある程度考えて行動しているのに、こちらが避けていても、子供のいる人はこちらに近付いてくる。
限定された時間や場所に得られる心の安寧すら奪われることが多い。
人間は、他の動物とは違う。ただ子孫を残すことだけが存在意義ではないはず……
旧優生保護法の下で実施された障害者の強制不妊手術のニュースに対して、個々の生き方を尊重する流れに世の中が傾いてくれることを祈りながら……
地上波のコマーシャルで、子連れの場面ばかりを映す企業は、機会損失だと言っておこう。少なくとも私は子連れの笑顔の光景ばかりを映し出す企業の商品は避けるだろう。
幼女が誘拐され殺害される暗いニュースが定期的に毎年頭に入ってくるのと、日々この心をいきなり突き刺してくる知らない誰かの幸せ。
微細に積もり積もって、私の精神面における動きが止まってゆくのを感じている。
熱くなれるものがないのに、焦っている。私の過去を理解しようとしない者と、私を傷付けた人間と、何が違うというのだろう。理解しない限り、同じではないのか。