heartbreaking.

中年の末路とその記録

俺がお前が♪とラップを日本語でご披露する前に黒人がいるスラム街で何年も実際に生活してきてくれないか

昭和の歌はわかりやすい歌が多く、メロディも覚えやすいので、今聴くとそれが妙に新鮮で気持ちイイのは何故か。

その時代は人目を惹きつける歌い手がいた。

また、歌い手と作曲家の繋がりにより、個性的な歌も存在しています。その一端を、以下で垣間見ることができる。

ちあきさんは凄い。生で歌を聴くとびっくりしちゃうよ。 - Real Sound|リアルサウンド

歌い手のために曲を提供する人がいる。そのような形態は次第に需要は尽きているように見えます。いまは女性アイドルグループ・ジャニーズを除き、誰もが「歌は自分で作り、そして歌詞も書く」流れになりつつある……それが=その歌に説得力を持たすのかどうか疑問を感じている。たとえばレディー・ガガとマドンナが一時関係が冷え込んでいた中、ガガが、マドンナは曲を作れない的な発言をしたようで、だが歌うだけの人がいてもイイと私は思っている。レディー・ガガとマドンナがついに和解 Rolling Stone Japan(ローリングストーン ジャパン)

曲を提供してくれなくても、歌詞を書いてくれなくてもだいたい自分でやってしまう。そのようなネットで話題の一部のアーティストの歌は「我」を無駄に肥大化させているように感じる。ブログかツイッターでほざいてりゃイイ程度のことでもわざわざ歌にしてしまうやつらがいる。

それがラップだと最悪だったりする。俺がお前が♪とラップを日本語でご披露する前に黒人がいるスラム街で何年も実際に生活して、どのような魂で歌えば伝わるのか、背景が必要なのか学んでからにしたほうがよいと思う、こいつらはまさに日本の恥だと私は思っている。つまらん私利私欲を日本語でラップにするほど滑稽極まることはない。

単独アーティストのラブソングに起こりがちな「独りよがり」と「我儘」はエスカレートしてゆく。それが歌と信じている若い世代を巻き込みながら。

近頃のアーティストは戦時中の人々の心の痛みに配慮できぬ、過去の苦しみを冒涜する「単語」も平気で歌の中で無自覚に使う、その世代が歌を発信し始めたのは恐怖である。

さらに音が滅茶苦茶に散らばりすぎている。この中に過去のパクリが巧妙に混じっていてもそれすら気付き難い。

過去の作品であろうと、かなりマイナーであろうと、その作品や人を知っている・あるいはコアなファンはいるのである。

それは歌に限らず、映画でもそうである。原点よりも、パクリのほうが支持を得すぎているために、原点が封印されてしまっている。純粋なものが塗りつぶされていってまがい物だらけになってゆくような気がしている。

その中でアニソンだけはいつまでも支持したいです。鬼滅の炎はわりと好きです。わりと、ってのはつまり良い歌すぎるのでリピートして聴くことはできない・心構えして聴かないと脆い時にはやばくなる。

あと、鬼束ちひろさんもっと目立ってきてほしいです。昔、鬼束ちひろさんのアルバム「インソムニア」を部屋に引きこもりながら聴いて過ごしていました。当時の鬼束さんはそのような心の闇をそっと、癒し、包み込んでくれた。

温かく、最後に涙が溢れてくる。そのような感動を与えてくれるアーティストにその後あまり出逢っていないような気がしています。上辺だけの、独りよがりな(しかもどこかパクリな)作品にはもう懲り懲りです。