幸せは自分だけが噛み締めておけばいいものじゃないのか……と思うんだが、ブログという便利な報告ツールがある以上、そうもいかないらしい。
人は、自分が手に入れた幸せを語ることをやめようとはしない。
誰かに幸せを語り聞かせる過程で、初めて、自分は幸せだと再確認出来るケースもある。自分だけでは確認できなくて、誰かの承認を必要とするのが、手に入れた幸せなんだ。
皆、不安なんだ。どんな幸せを手に入れようとも。だから、人は幸せを、際限なく、誰かに語り聞かせようとする。
何故、幸せを語らなければ気が済まなくなるのか。それは自分の価値を、自分以外の個体から感じようとするから、不安になる。
幸せであると同時に、それを失う潜在的恐怖や、未来に訪れる別離に、心の奥底で震えている。
人に幸せを語りすぎる類の人間は、どいつも内心臆病で、それを失うことを過剰に恐れている。
対して、独り身に慣れている人間は、そうした臆病さは存在しない。いつでも自分ありきで、家族や恋人は大事だが、それが一番ではない。
一番大事なのは、何をさておいても自分であるのだとわかっているはず。
俺は家族や恋人を失うことを、本当には恐れていない。むしろ失うほうが、それだけ心配事が減る。家族も恋人も所詮その程度の存在だということに、この歳になり、ようやく気付いたんだよ……
最後には俺が立っていれば、それでいい。
そんな風に人生を割り切ろうとしても、聞きたくない話を完全にシャットアウトすることは出来ない。ネガティヴな感情になる時は、孤独な闇の輪郭だけが俺の体の中でただ一つはっきりとしていて、あとは何もない。それは誰かの温かな家庭の話を聞かされた時。
子供のいる家庭の温もりが、どういうものか、わからない……
実際の暴力よりも防ぎようがないのが、心の中にふるわれる暴力。幸せではない人生を送る心の中に、幸せ話が飛び込んできたら、それを即座に取り除けるかというとそうでもない。
結構、長く尾を引くし、心の中を蝕まれて、色んな場面で思い出す。それは温かな家庭の話のみならず、金持ちの優雅な生活を知る時も。
何故、自分にはその幸せがないのか……と悲しくなる。
誰かに暴力をふるったわけでもない、人のことを極力傷付けないように、優しくあろうと生きてきたはずの俺が、今は独りで生きていて、この世に神様は存在するのか……って会社の休憩時間、悲しい気持ちになることが多い。
だからって、ここで生きるのを諦めるわけにはいかない。俺の人生の価値を誰よりも知る俺自身が、消えてしまうなと、この体の中から胸の辺りを必死に叩いている。
そんな話は聞きたくないと思っていても、嫌悪の表情を見せれば俺のほうが社会から迫害される。
幸せを語れば、それを聞いている人も一緒に幸せになれる、なんてことはない。同じ幸せを一度でも経験している者達だけが抱いている幻想だ。
俺は、悪意なのか、無邪気なだけなのか、どちらの感情で幸せを語り聞かせてくるのかが、判別付かない。
ただ一つ言えることは、人は幸せに飢えていて、自分が手にしているものが本物であるかどうかを、いつでも確認したがっている。大人の皮を被っていても、心はいつまでも子供のままで無邪気さを尤もらしい理屈で正論化するだけ余計性質が悪い。
手にした幸せの確認には、誰かが必要で。相手が心を持つ人間でなければならないことが、闇を作り出し、犯罪を増やしているような気がする。「無自覚な加害者」がこれ以上増えることを、俺は危険だと感じている。
皆が幸せではないことを理解することは難しいだろうか。
自分の幸せが、誰かの心を焼き尽くす残酷な炎に変わることもある。
俺は一度は結婚した経験があるんだが、話し相手が独身者である場合、話題をかなり選ぶようにしている。
その人が、どのような気持ちになるかを、いつでも想像しながら話をしている。言葉一つ一つに注意を払うし、傷付ける可能性を除外出来ない発言は即座に訂正もする。
人を傷付けることしか出来ないのなら、何のために言葉を使うのか。
相手が、経験したことのない「わからない」話を一方的に繰り返しても仕方ない……
結婚したことのない人に、自分が過去に結婚していた頃の話を語り聞かせて、何になる。俺があれこれ語るのはブログだけで、リアルでは人との会話には相当配慮している。
自分が幸せ語りをしておいて、それを無視されたり批判されたからと逆切れするなんて、そんなことは俺の辞書には載っていない。
自分が「わからない」世界の話を、何千回聞かされても、自分はその世界には入れないとわかっているなら、拷問と同じ。
仕事で疲れて寝ている間に、母から電話が二回かかっていたようで、もう親も歳だしなと、何が起きてもおかしくないので起きてすぐに電話すると別に大した用じゃなかった。
そこで母に、彼氏と幸せだということをノロけてしまったのだが、あまりにもノロけすぎてしまったため、母のほうが途中で電話を切りたがっていた。
だが俺は、幸せかどうかいまいち実感出来ていなかったことを、母に語る中で、幸せだと再確認することが出来たので今回このような話をした。俺は、人が生きるために最も必要なことは、手に入らないものを諦める力だと思っている。