heartbreaking.

中年の末路とその記録

反応がゼロでも考え抜く力の欠如

当ブログもhttps化したところです。大手ニュースサイトが未だ軒並みhttpなのは気になるが、当ブログではサイドメニューのhttpリンク等もhttpsに変更して無事証明書発行されました。

その過程でちょっと迷いました。個人の日常をこのまま伝え続けてゆくのかどうかと。ブログにおける収益があくまでラッキー要素である場合、自ブログを今後流れにそって強化してゆくことについては……立ち止まって考えます。

httpが古くなってしまうことに対しては、時代の流れを感じています。20年前ブログなんてありませんでしたので受信者の立場であることがスタンダードで、自分の意見は「平凡」で「価値が無く」そして「思ったことは」誰にも届けるものではないと思っていた。自分が発信者になることはない。テレビも今より多く視聴していました。仮に自分が何かを届けるとしても、それが何であるかは明確でない間は、自分を出すのがとても恥ずかしい。それが、いつの間にか意見を言うのが当たり前になってしまった。

ブログをするのが良いことなのか悪いことなのかはもはや問いかけることすら難しい時代になってきた。だがブログをすることで失ったものはある。意見を言う前に何日も何か月も何年も自分の中でそれが良いことでも悪いことでも徹底的に考えぬいてゆく、その過程で他人をこの心の深層に一切入れず自分一人で修復してゆこうとするかけがえのない期間が奪われている……反応を求めない、反応ゼロの中で考え抜く力が欠如してきている。結果の方向も違ってくる。まだブログが存在していない頃、何か悪い出来事が起こっていても、誰の答えを求めることも自分にとっては間違いだと思っていた。解放できない想いなら閉じ込めておくしかできない、それがいいことだったのか悪いことだったのか今となってはわからない。当時は(自分の中では)壮大な冒険していたのだと思いたいこともある。だけど冒険するのならば楽しいほうがいい。発信者になりたくても容易にはなれない時代がちょうど就職氷河期と重なり氷が溶け始める頃ブログが発展し始めたがもう手遅れだった。自ら失敗の数々の中に飛び込んでいったことで得られた経験が、そのあとに良い人生を構築してゆくとは思っていません。出来ることならば失敗はなるべく回避し、限りある人生を、その年代に合わせた最良の選択で進んでゆきたいものですが、一度、不幸体質に陥ってしまうと望まなくてもいつしかその不幸な自分が心地いいとすら思ってしまうようになる、誰かがそれはやめときなよと言ってくるようなこともやがて平気でするようになってくる。恋愛をするかどうかも含めてその在り方も原点を辿れば、いま目の前を通り過ぎてゆく学生共が恋愛しているような青春が自分にはなかったから、だから今こんな馬鹿な恋愛をしていないと自分をどうにか保てない。借金を完済してもまた借金して元通りになる、自分の人生は搾取され続けてすり減っているのにそれに戦いを挑むほどの力もない。諦めたりありもしない夢を見たりすることで生きてゆけるのなら、永遠に、この命が消えるまで(まるで搾取する側のような生活を送れる、そんな夢が)訪れることなどない……降り注ぐ雨のように目の前で流されゆく可能性は消えてゆく瞬間にまるでなかったかのように処理することで何度でも自分の立ち位置へと戻る。「幸せになれない自分」ではなく「本当はなりたくない自分」がいる。

誰かを信じて傷付けられることもどうでもよく、自分が傷付けてしまうことについては特にどうでもよい、痛みを感じる前に、期待することを停止させてしまえばあとは相手が自分の中から消えてゆくだけだ。ほぼすべての人に対し、相手も「どうでもいいと思っている」ことを前提として人と接するようにしている。向けてくれる笑顔は空想だと思うことにしている。私が誰とでも逢ってヤッてしまうのも、本当は、どうでもいいと思っているからでどうせ家庭も築けない、自分の後ろを金魚のフンみたいに付いてくる子供だってもう不可能で、他に何を期待することがあるというのだ。フン、馬鹿らしい。なにも信じちゃいないが高等な俺が低俗なお前にわざと騙されてやっているんだよくらいの感覚でなきゃ誰とも付き合えない。そうして馬鹿の相手をするのも馬鹿馬鹿しくなり(お前の不幸なんか知るかと)いつのまにかまた自分が不幸に舞い戻って安堵する。人生の何処かで致命的な不幸に感染すると不幸を止められなくなってくる、幸せを自ら遠ざけてゆかなければ自分を保てなくなってくる。

中年になってから出会う相手は同性でも異性でも大抵体のどっか悪いか病気の一つや二つもってて病院通いしてるから、まず自分の悩みがあるのに、それどころじゃないよって感じでもう理解するのが面倒くさくなってくることが多く、手遅れなんだということにますます気付いてくる。