heartbreaking.

中年の末路とその記録

手に入らないものが多いほど高尚な存在に近付く

お元気ですか。GWは食って寝て映画観てゲームするだけですが、出勤時間を気にせず寝れるなんて夢のようです。

これからの社会は、目立って人の記憶に残ることが必ずしも良いこととは思えなくなっています。

目立たず人の記憶にも残らない生き方のほうが素晴らしいような気がしてならない。

自分が死した後も嫌な芽を残さずに済む。それがたとえ1分1秒でも。もし、誰も傷付けず、誰の心にも残らずに消えたら、それはなんて素晴らしいことだろう……

記憶に残る楽しいことはほんの少しです。心に食い込んだままなのは傷付けられた記憶ばかりです。その誰かにとっての傷の一つにもし自分の存在が刻まれていたなら…なんておぞましいことかと思います。

さて今日は、交流を円滑にする「すみません」という一言についてです。

私はどこへ行っても必ず聞かれます。結婚しているか、子供がいるか、答えはYESかNOです。

大抵の質問者はYESしか想定せずに質問を投げてきます。

NOが「存在しない」前提で気軽に質問してきます。こちらがNOを返せば無言になるか、あるいは「ラクで羨ましい」などを言ってくる人が多かったです。

ラクかどうかは、独身で子無しでも介護に追われてる方もいるのでわからないと思うのですが。私は両親が健在でいま一人暮らしでゲームする位の暇人ですが、それにしても「ラク」と決めつけられるのはチョット違う気が……

諦めて受け流すのですが、家に帰ってから「そうか、独身で子無しだと、暇人だと思われることもあるんだ」と反芻することはあります。私は仕事から帰って毎日フォールアウト4で遊ぶ位、今は暇ですけど、でもずーっと暇だったわけではないので傷付きますよ。

言い返してやる妄想もしましたよ。「お前が俺の人生の一体何を知ってるんだ」

その程度の人間しかいない職場しか私が選べなくなっているからです。思慮深い人はそんな質問しないです。

本音を言うと、これだけ多様化について検討する社会の中で、属性によって対応を変えようとする人々をいまのまま野放しでいいのか疑問におもう…

では、NOが返ってきたときに質問者はどうすればいいかというと、

一言「すみません」

と謝ればそれで解決します。

例:

「お子さんは?」

「いません」

「すみません」

「いや、いいですよ」

洋画を観ていると、相手に失礼な質問をした場合、即座に謝罪するシーンを目にするとおもいます。日本人の大半はそれが出来ていないと感じています。相手を傷付けるような質問を投げてしまったなら、傷口が悪化する前に即座に対応する必要があります。そうすればきっと良好な関係を築くことができます。

他人にとっての自分の「何か」が「嫌な記憶」の一つとなることのないよう、実社会で普段からまず言葉に気を付けたいです。

独身で子供がいないことについて過度な配慮はいらないですが、極端な話、両腕のない人間に対して、腕があるのかないのか質問しているようなイメージに近いです。

それが見えているか見えていないかの違いだけです。見えないものに対し、推測するチカラが欠けています。

何でも簡単に得ていると人の心に鈍感になり、不必要に他人を傷付けてしまう。学生時代から当たり前のように恋愛体験をしているような者はそれが出来ることがどれほど奇跡か知らないので、ここで一つ大事な気付きを失っている。

人は手に入らないものの数が多いほどそれについて苦悩し、より高尚な存在へ近付くのだと私は信じている。誰も見れない角度から物事を見れるようになる。

欲しいものが手に入らないままで生きていても、無関係な他人を無暗に傷付けてしまうよりはマシだ。代わりに人とは違う心の感じ方を得た。この感じ方を大事にしたい。

その瞬間・その数分の会話の断片だけでその人を一生苦しめ続けることになる。そんな存在に私はなりたくないので、現実世界では、仕事以外の用で誰かに「質問」をしたりはしない。それがYESでもNOでもどれが適切な返し方か、相手の立場にならないとわからないからです。フォールアウト4に戻ります…