heartbreaking.

中年の末路とその記録

小山田圭吾は露悪趣味に失敗した

昔、小学校で特殊学級がありましたがそういうところにいる障がい者の人をいじめるっていう選択肢はなかったです。ただ、不思議な人たちがいるなあとおもってたくらいで自分は過去に以下の記事を打ってますがこういうスタンスで接していました。

子供の頃に優しかった自分は、何処へ行ってしまったのだろう

小山田圭吾さんを不快に思っているほうですが、露悪趣味でしか己の魅力を上手く雑誌内に表現できなかった時期があるのかなと読みました。そこで過去のいじめを道具として利用したのが1996年、インターネットがテレホーダイで接続されるような時期なのでかなり予測できない未来でした。

因果応報はあるとおもいます。後になってみると自分が納得できるかたちで過去がお迎えしてくれる。

終わった過去など一つもなくて、どうでもいい同級生が夢に出てくるように、様々な自分が当時の姿のまま大勢の頭のどこかにいます。ただ通りすがりざま目に映った美しい女性の姿すらもこの頭の中で管理しています。私達はいついかなる時も複数の頭の中で管理されています。そんなことは終わったとおもうのは自分だけであるとおもうのです。

だからこそ一線を越えている、いじめや暴力なら尚更、終わるなどとは到底おもわないほうがよいのです。

過去の出来事であっても相手かその家族に「永続的」に悪影響を及ぼしているのであればいまでもしっかり議論したほうがいいとおもう。出せるお金があるのなら出し惜しみせず謝罪の言葉と共に全部出してください、そうすることでしか償えはしないです。

議論したところで、いじめがあったことは永遠に赦されるということはないとおもいますが、まず、いじめた相手が生きていることに感謝しなくてはならないです。

小山田圭吾の仲間がいじめの事実を「過小評価」している発言をするのはかなり問題あるとおもいました。

類は友を呼ぶで似たような人間ばかりが集まってきます。被害者の家族に、二重三重の苦しみを加えています。障がい者であるなら、うんこを食わされていることの酷さを正しく理解するよりも先に苦しみがきてかなり危険な状態だったのではと推測します。

相手にとって大きいかもしれない過去の問題を「過小評価」して済ませたがる傾向は私にもあるとおもいます。

本当に反省しているならば、生きてはいられないです。まだ生きているということは反省できていないということです。

人間は根源的に変わることはないとおもっています。たとえば親子で血の繋がりがあるのに全然違う考え方をしている。だから一線を越えて悪いことをする人間は死なない限り変わることなどないということです。

人をいじめるのはまさに「余計な」「しなくてもいい」行為なので、精神が暇な、悩みのない人がすることです。勉強ができても弁が立つ人でも、いじめをする人は馬鹿なのです。相手のステイタスに騙されないでください、しっかり中身を見てその人と付き合うかどうか判断したいですね。